短歌鑑賞2

梅内 美華子 (うめない みかこ)

人物

 1970年〜 (昭和45年〜 )。青森県生まれ。

 結社「かりん」。 「横断歩道(ゼブラ・ゾーン)」 「若月祭(みかづきさい)」など。

鑑賞

若きゆえ庇われている羞しさの鶏冠のように腫れゆく思い

〔注〕羞しさ……(やさ)しさ。恥ずかしさのこと。  鶏冠……(とさか)

 「鶏冠のように」という比喩は、赤面するばかりに羞恥の思いが膨れあがって行く、その感じを表現したものでしょう。

 社会の高齢化が進み、職場などでも若者の数が相対的に少なくなっている状況もあるでしょうか。そうしたところでは、若い人も気を遣うのでしょうが、周囲の年輩者の方がかえって若い人に気を遣うということにもなるのでしょう。

 「羞しさ」――身の細るようなはずかしさを詠み手は感じています。「庇われている」とありますが、何かミスをしたということでなくてもよいでしょう。周囲からあれこれとアドバイスを受けたり、ともかく世話をやかれる、そんな状況として読んでいいと思います。詠み手は、そうした周囲の対応にいたたまれない気持ちになっています。それは、単に「若きゆえ」、それだけの理由で特別扱いされるのですから。自分の行動や能力が、それ自体として問題にされるのではなく、若さということからそれへの評価があいまいにされ、いわば甘やかされていることが耐えられないのです。自分自身に落ち度があったとすればそのこと自体に恥じ入る気持ちになるでしょうが、それを大目に見られることになればさらに恥じ入る気持ちが生じて、詠み手は二重にプライドを傷つけられることになります。

 団塊と呼ばれるような世代が若者であった頃はどうだったのでしょう。失敗すれば年輩者から手厳しくののしられ、それにまた若い人が食ってかかる、そのかわり、口に出した限りは背一杯がんばる、そういった時代ではなかったかと思います。年齢や経験からくる上下関係はあったでしょうが、共同して何かをする場面では対等な直の関わり合いがあったのではないでしょうか。

 詠み手には「腫れゆく思い」があります。けれど今、「庇われている」という状況にあっても、それをむしろ自分に好都合なこととしてやってゆく、そんな若者もいるのではないでしょうか。それからすれば詠み手は自分に誠実だと言わなければなりません。

2008年

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