雑記

目次

 思うことなどを書きます。

『和泉式部日記』垣間見の記(4)

なほもの思ひ絶ゆまじき身かな

その後も宮と「女」、ふたりの逢瀬と歌のやりとりは続く。そんなある夜、宮が自らの出家の意志をほのめかす場面がある(第三十一章)。女の動揺は計り知れないのだが、読者としては、宮もまた世をはかなむ心地にあるのだということが分かり、併せて、自分の気弱な思いを女に示すほどにも二人の仲が進展したのだということが分かるのである。

 第三十三章に入って、「寿命を全うできないような気がする」と心細いことを言う宮に女が送った歌が次である。

呉竹(くれたけ)の世々のふるごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ

(昔から伝わる古物語を思わせるような私たちの恋の昔話を、私一人でするというのでしょうか。そんなことは出来ません)

 ふたりの情愛を誇らしく詠う、励ましの歌である。

 宮の返し、

呉竹の憂き(ふし)繁き世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも

(つらいことの多いこの世の中に生きていたくないと思うのです、しばらくの間も。)

 宮は女に甘えているのだとも読めるような歌である。

 こうした関係の深まりのうちに、宮は女を自邸に迎えとる行動に出るのである。「手枕の袖」から二ヶ月が経過していた。

 十二月十八日、宮は女を牛車に乗せて、そのまま自らの邸へと連れ帰る。これまでも宮が女を連れ出して別の場所で夜を過ごすことが何度かあった。だが、侍女も連れて来なさいという宮の言葉から、いつもとは違っていると女は察するのである。宮邸には女の部屋が(しつら)えられていた。

 一方、宮と北の方との関係はこれまでもうまく行ってはいなかったようである。宮が女を邸に引き入れたことで北の方の煩悶、嘆きは一層のものとなる。だが、北の方は宮に、泣く泣くこう告げるのである。「しかじかのことあなるは、などかのたまはせぬ。(せい)し聞こゆべきにもあらず。いとかう、身の人げなく人笑はれに恥づかしかるべきこと」(愛人を召人として宮仕えに召すのは妻が止め立てする筋のものではない。ただ、妻である自分にも知らされることなく、そんなことをされては、面目もなく世間の笑いものではないか)というのである。身分の高い家の出ではあっても、男性中心の身分社会においては自分のプライドを主張することが精一杯のことなのである。

 女は宮仕えにも慣れて宮の世話をして暮らし出す。宮は昼も夜も女のもとに居て、北の方とは間遠になってゆく。すると北の方に付いている女房や下女などが女や宮のことを悪く言う。それを耳にした宮はますます北の方とは疎遠になってゆく。

 年明けて一月、北の方は宮邸を出て、姉のもとに身を寄せることになるのである。(第三十五章)

 『日記』はここで語り納められている。

 ところで、北の方が宮邸を去ろうとしている時、宮側の女房が宮に「引き止めるように」と言う場面がある。北の方の姉は、東宮となっている宮の兄の女御なのである。兄にも事態が直に伝わることで、宮にとっては都合の悪いことも出て来ようというものである。その騒ぎの中で女のこともいろいろ取り沙汰されたのであろう。「聞きにくきころ、しばしまかり出でなばやと思へど、それもうたてあるべければ、ただにさぶらふも、なほもの思ひ絶ゆまじき身かなと思ふ。」と女の心境が述べられている。(聞きづらいことも耳にして、里の実家に戻ってしまいたいとも思うが、それもまたうとましく、ひたすらお仕えするばかりだが、それにしても「もの思ひ」の果てないわが身だ)とつくづく思うのである。

 男性中心の身分社会において、いかに女性が(男性もであるが)生きづらいものかを目の当たりにしながら、女は世の中を静観しつつ、それらの不条理とどうにか折り合いをつけて生きている、そんな印象を受けるのである。

 宮と初めて契りを結んだ翌日の歌が思い返される。

世のつねのこととも更に思ほえずはじめてものを思ふ(あした)

(第四章)

(世にありふれた恋などとは思われません。はじめて、これほどにも思い乱れる朝でございます)

 宮への格別な恋心を伝える歌である。だが、宮と交際することは身分差のある人と関わることであり、それによって身分社会の慣習や制度の中にのめり込むことなのでもある。「もの思ひ」は人との情愛から生じるだけではなく、宮や自分をとりまくものからもたらされてくるとすれば、女の「もの思ひ」はこの時点から始まっていたのである。

 宮は世間体を慮ってか、何度か女を別の場所に連れ出して夜を共にした。ある時は牛車の中で夜を過ごしたこともあった。光源氏が夕顔を別院に連れ出す場面を連想するのだが、この宮の行動は身分の低い女への対応だとも言えなくはない。

その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅寝をぞする

(第二十五章)

(初めての逢瀬の夜から私の身の行く末はわからなくなって、思いがけない旅寝をしてしまいました)

 女は、歌の風雅に託し、つらい思いをさし出していた。そうではあっても、女は宮への思いをまずは優先させてきたのだった。世の習わしを見据えつつもそれに呑み込まれない強さを女は備えていたように思う。

 女にとって大切なのは、宮との愛情深い人間関係であり、和歌の風趣で心を通わせることなのである。そうした自分なりの生き様を絶えず煩わしてくる状況に、女の「もの思ひ」は果てることがない。

 ちなみに、実際上では、その四年後の一〇〇七年に帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王が薨去、和泉式部は宮邸を去ることになる。『和泉式部集続集』に、宮の一周忌に至るまでの歌百二十余首が、帥宮挽歌群として残されている。和泉式部の思いの深さをそこに見ることができる。

2023年8月1日

『和泉式部日記』垣間見の記(3)

手枕(たまくら)の袖

 前回、間遠となる宮の事情と女(和泉式部)のやるせない心境を垣間見た。そうした宮と女の関係が大きく進展するのが、第十八章である。十月になって十日ごろ、宮が女のもとを訪れる。(はし)近くに臥して交歓を尽くすのだが、折しも月が雲に隠れ隠れして時雨(しぐ)れるばかり、女は感極まって「思ひ乱るる」さまである。そんな女を見て宮は、「人の便(びん)なげにのみ言ふを、あやしきわざかな、ここに、かくてあるよ」と思う。(世間ではこの女を悪く言うが、おかしなことだ、 ここに、こんなふうであるよ)の意。「かくてある」とは、自分の手枕の袖のうちに思い乱れて伏している女の様子を受けている。純朴でしどけない女の嫋やかさを見て、宮は女をこの上もなく愛おしいと思うのである。悪女のように言う噂が見当違いであるとも思い返すのである。そして、宮が涙する女に詠みかけた歌。

時雨(しぐれ)にも露にもあてで寝たる()をあやしくぬるる手枕(たまくら)の袖

(時雨にも露にもあてないで寝ている夜なのに不思議にも共寝の手枕の袖が濡れることだよ)

 この歌に女は、「よろづにもののみわりなくおぼえて(思い乱れてすべてに判断がつかないように思えて)」返歌をしない。(ちなみに、物語の中で女が返歌をしていないのはこの場面だけである。)そして、心乱れて返しはできないが「手枕の袖」は忘れるものではないと、女がささやくうちに夜の時間は過ぎてゆくのである。

 ところで、この場面の語りは、これまでとは違っていて、宮に視点が置かれている。これまでも自邸における宮の様子・心境は宮の側からも語られていた。だが、宮と女が一つの場面に在るときには女の側からの語りになっていたのだが、この場面では視点が宮の側に移っているのである。ここでは、女は宮から見られる「思ひ乱るる」客体として描かれ、逆に宮の心情がつぶさに捉えられている。複数の登場人物の有り様とその心情を全知のごとく自在に語るという、物語の手法の一つを作者は用いているのである。和泉式部自身と思われる女を客体化しながら、女への宮の思いを語るというのがこの場面なのである。

 そのことによって、男たちが通っているという噂にこだわっていた宮の心境が変化したこと、宮がこれまでの浮ついた気持ちではなく、女のことを親身に思い始めたことを読者に伝えたのである。裏返せば、女が、宮から深く想われた女性であったことを明確にすることにもなっているのである。この夜以降、宮は女のもとへ頻繁に訪れるようになる。宮と女の親密さが増してゆくのは言うまでもない。

 次の第十九章では、宮からの宮邸(みやてい)入りの誘いが語られる。宮仕えの形をとって一緒に住もうという誘いかけである。

 宮の(やしき)に女房として入る(宮仕えする)というのは、〈召人(めしうど)〉になるということであり、前にも少し触れたが、一夫多妻の社会における使用人兼情人という立場になることを意味する。宮にはすでに藤原済時(なりとき)の二女が北の方(正室)として入っていた。その同じ邸に女房として迎え入れようというのである。

 召人という語からは、権力にものを言わせて男が女性を思うがままにするという響きが感じられるのだが、宮と女の関係にはそれは当たらない。宮は女を尊重し、女も宮との関係を大事なものに思っていて、二人の間に支配従属の意識は入る余地がない。

 宮は、女のつれづれを思いやり、またこれまでの自分の女への思いを言葉を尽くして語りかける。

「同じ心に物語聞こえてあらば、なぐさむことやある、と思ふなり」(ものさびしく物思いばかりしているのであれば、自分の身近にいて、同じ心で語らい過ごせるなら、こころも慰むこともあろうか、と思うのですよ)といった、こまやかさなのである。

 さて次に、その誘いに対しての女の思いが語られている。「げに、今更さやうにならひなきありさまはいかがせむなど思ひて」(今更慣れない宮仕えなどしたくない)と思いながらも、「なにかは、さてもこころみむかし」(ままよ、宮のおっしゃるようにしてみよう)と考えるのである。俗世を捨てて信仰の道へと導いてくれる人もいない、このままでは惑いながら生きてゆかねばならない、言い寄ってくる男は多いが、かえってそのことで悪い女だと噂される、宮以外に頼りになる人もいない、それならば、という思いなのである。

 思いはそのあと次のように続く。

「北の方はおはすれど、ただ御方々(かたがた)にてのみこそ、よろづのことはただ御乳母(めのと)のみこそすなれ、顕証(けそう)にて出でひろめかばこそはあらめ、さるべき隠れなどにあらむには、なでうことかあらむ、この濡れ(ぎぬ)はさりとも着やみなむ」(北の方はいるが、宮とは別々の部屋に住んでいて、すべては乳母が取り仕切っている、人目に立つように振る舞えば別だが、こっそりと過ごせば何のこともない、宮邸に入れば浮気者という濡れ衣は着せられずにすむだろう)というのである。

 召人となって宮邸に入れば、女にとっては、差別的な社会にじかに巻き込まれることになる。長々と言葉を引用したのは、女が宮邸に入ってからのことをあれこれ想像しながら自分を納得させようと懸命であることを示したかったのである。

 女にとって宮邸入りは大きな進路選択である。わびしい世の中で、何を心の拠り所として生きてゆくか。宮が思いを寄せてくれていること、それを頼りとするしかないかというのが女の気持ちなのである。(もちろん、女は自分が正妻になれないことは重々分かってのことである。)

 それにしても、「この濡れ衣はさりとも」というところ、自分の生き様を世の固陋な風評からとやかく言われることへの反発が見えて、女の芯の強さを思わせられる。

 この時、女は一応の結論には至っているのであるが、このあとも「どうしたものか」「物笑いになるのでは」などと迷い続けるのである。

2023年4月1日

『和泉式部日記』垣間見の記(2)

(くら)(みち)にぞたどりこし

 その後、宮は女(和泉式部)にしばしば文を送り、ついに、「語らはばなぐさむこともありやせむ」と言って、お忍びで女を訪ね、関係を結ぶ。だが、後朝(きぬぎぬ)の文こそあったが、翌日は言い訳の歌が送られてきただけで、訪れはない。「おはしまさむとおぼしめせど、うひうひしうのみおぼされて、日ごろになりぬ。」恋の道には不慣れだなどと宮は思いながら、その訪れは「間遠(まどお)」となる。(第四章)

 その宮の事情であるが、五月の大雨の夜を叙した第八章に、次のような「侍従(じじゆう)乳母(めのと)」の言葉がある。宮は、不安になっているであろう女を案じて訪ねようとするのであるが、それを乳母が引き留めて諫言する。「なにのやうごとなき(きは)にもあらず。使はせ給はむとおぼしめさむ限りは、召してこそ使はせ給はめ。かろがろしき御(あり)きは、いと見苦しきことなり。そがなかにも、人々あまた来かよふ所なり。便なきことも出でまうできなむ。……」(あの女は、何ほどの身分の者でもない。召し出して使用人として側に置くのはいいが、軽はずみな忍び歩きは見苦しい。それにあの女には男が多く通っている。不都合なことも起きてくるだろう。)といった具合。

 恋には不慣れというだけではなく、宮には周囲からの圧力がかかっているのである。大海人皇子や中大兄皇子が額田王を愛した時代とは違い、すでに政治の実権は藤原氏にあった。皇族であるがゆえに、逆に様々な制約が陰に陽にあったのだろうと思われる。

 読者としては、乳母の言葉に見られる、女の身分が低いことへの蔑み(五位以下の家柄か)、使用人兼情人(召人(めしうど)と言う)なら可とする当時の男女観に注目しておかねばならないかと思う。

 もう一つ、宮を悩ませていたのは、女のもとに多くの男が通っているという噂である。

 第十一章に、宮に仕える女房たちの噂話が記されている。「宮も、言ふかひなからず、つれづれのなぐさめにとはおぼすに、ある人々聞こゆるやう、『このごろは、源少将(げんせうしやう)なむいますなる、昼もいますなり』と言へば、『また治部卿(ぢぶきやう)もおはすなるは』など口々に聞こゆれば、いとあはあはしうおぼされて、久しう御文もなし。」〝あの人も、あの人も、源少将(げんせうしやう)なんかは真っ昼間からよ〟などと囃し立てて、口さがない女房たちであるが、ここからは、噂話を宮が真に受けている様子もわかるのである。

 ところで、注目されるのは、視点を宮の側に置いた際に、女のことを作者・和泉式部が右のように語っていることである。乳母や女房たち、宮の心境などを物語として想像のうちに語っているはずである。身分の低い、取るに足りない女、男があまた通う多情な女、そんな風に噂されていること、作者は「女」自身を客観的にとらえているのである。自分と世の中を冷静に見据えていると言えようか。「女」もまた、そのような世間の目(価値観)は承知の上で、自らの日々を誠実に暮らしているのである。第十三章では、七夕ということで、好色な男たちから文が多く届けられるのであるが、女はそれには目もくれず、「宮は私のことを忘れてしまわれたのだろうか」と宮のことを思いやるのである。

 さて、第十五章。八月になって、女は石山寺に参籠する。寺への参籠は当時の貴族の信仰として普通に為されていたようなのだが、この時の女について言えば、宮とのことや日々のつれづれの中で、何か満たされないものを抱えての寺籠もりである。自分を見直したいとの思いかも知れないが、いざ寺に籠もってみても気持ちは落ち着かず、仏道修行に専心することもできず、かえって都の暮らしをなつかしむという様であった。

 女の石山寺参籠を知った宮は、自分に知らせもせず都を出た女をなじりながら、いつ帰るのか、早く帰ってきなさいとの歌を送る。女は女で、私は私の今を見きわめるのだ、都へと言うのなら貴方自身が迎えに来てみなさい、などと歌で応酬する。宮に仕える小舎人童(こどねりわらは)はその日、文を携えて都と石山寺を二往復させられるのである。

 そんな駆け引きもあったが、しばらくして女はあっけなく帰京する。それを知った宮からの歌が次である。

あさましや(のり)山路(やまぢ)に入りさして都の方へたれさそひけむ

(おどろきました。仏道修行の山籠もりを途中でやめて、都へはいったい誰が誘ったのでしょう。)

 〝迎えに来てみなさい〟という女の歌中の言葉を引き合いに出して、〝私は迎えに行ってないのに誰かに誘われたのか〟と、はやばやと帰京した女を色ごとめかして揶揄したのである。

 それへの返しが次の歌。

山を出でて(くら)(みち)にぞたどりこし今ひとたびのあふことにより

(仏道修行の山を出て、煩悩に満ちた人間の世の中に戻って来ました。もう一度、あなたとお逢いすることのために。)

 「(くら)(みち)」については、和泉式部の著名な歌、

冥きより冥き途にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

が思い出される。「山を出でて」の歌の前年、一〇〇二年の頃の作とされているものである。。それからしてみると、女は、自身の生き様を仏道からすれば煩悩にまみれた冥(くら)いものだと考えており、世をはかなむ諦観といったものを持ちながら日々の暮らしを甘んじて営んでいるという、そんな心境が窺えるのである。

 宮の歌が、女の帰京を喜んで無邪気にひやかすのだが、女はそれを全く受け流して相手にしない。そして、一途に宮への思いを告げるのである。宮に自分の心境が理解されていないことを思いつつも、これからを宮と共にやってゆこうと女は覚悟を決めたのだという風である。女の寂しい心の裡も想像される。添えられた言葉はなく、歌だけが宮へ送られてこの章は終わるのである。

2022年12月1日

『和泉式部日記』垣間見の記(1)

ほととぎす聞かばや

 『和泉式部日記』の内容を紹介しながら感想めいたものを記してみたい。

 和泉式部は、和泉守・橘道貞と結婚し、二十歳で小式部内侍を産んでいる。その後、二十四歳の頃、冷泉天皇の皇子・為尊(ためたか)親王と恋愛に陥るも、為尊(ためたか)親王はその翌年の六月に病没する。その一周忌が近づく四月、為尊(ためたか)親王の弟の敦道(あつみち)親王から求愛される。和泉式部二十六歳、敦道(あつみち)親王二十二歳、一〇〇三年のことである。

 『和泉式部日記』は、和泉式部と敦道(あつみち)親王との恋愛をもとに、その十ヶ月ばかりの推移を書き留めた物語である。平安時代の日記文学が皆そうであるように、日記と言っても日々の実録ではなく、実際を踏まえながらも意図的に虚構された作品であることは言うまでもない。作品の中に登場する「帥宮(そちのみや)」「宮」に敦道(あつみち)親王を、「女」に和泉式部を想定しながらも、同時に、それぞれの場面を切り取った作者をも意識しつつ読み進めることになるわけである。

 ところで作品は三十五章からなる小品であるが、その中に、「女」の歌が七十四首、「宮」の歌が六十九首、含められている。歌のやり取りが物語の中心をなしているのである。貴族たちはその風雅と表現を歌合・歌会などで競い合ったのであるが、その一方で、和歌は大切なコミュニケーションの手段の一つであったことを、この作品から実感するのである。言づてや手紙にわざわざ和歌を添えるのは何故か。自らの思いを風雅な事物になぞらえて虚構することによって、その思いの襞を豊かに伝え、一方では自らの風雅・教養をもアピールしようとするのであろう。翻って思えば、歌は自らの感性や知性を反映させながら、その思いを伝えようと詠むのが基本のことだとも言えようか。ともかくも、和歌のやり取りに人物の感性の有り様を味わうことができるのである。

 さて物語は、故宮(為尊(ためたか)親王)に仕えていた小舎人童(こどねりわらわ)の登場から始まる。この小舎人童(こどねりわらわ)は、今は帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王)に仕えており、その使いで、橘の花を届けに来たのである。

五月(さつき)待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 この『古今集』の歌になぞらえて「あなたは今も亡き兄宮を偲んでお暮らしでしょうか」と、「女」の反応・風雅を試そうという宮からの働きかけなのである。

 その返事として「女」が童に託した歌が次のもの。

(かを)る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると

「ほととぎす」には、素性法師の「いそのかみ古きみやこの郭公(ほととぎす)声ばかりこそ昔なりけれ」が踏まえられている。

 この歌に〈橘の花を届け来し人へ、返し〉とでも詞書があれば、独立した一首としても味わえる歌であろうかと思う。上の句は「花橘の香に昔を偲ぶというよりは」の意であり、下の句は「昔のままに鳴くというほととぎすの声(その人の声)が聞きたいものです」と続くことになる。橘の花を贈られて、ほととぎすの声で切り返したところに、「女」の発止とした機知が発揮されている。あわい嗅覚から実体のある聴覚への転換は、「女」の利発さをも感じさせるものである。それほどに故宮のことを偲んでいるのだという「女」の思いが潜められている。だが歌の眼目は、「同じ声やしたると」である。宮が故宮の弟であることを踏まえれば、「あなたも故宮と同じ声なのかしら」という思わせぶりなニュアンスを感じさせるのである。つまりは、言い寄ってきた宮に対して、その交際の誘いかけを受け入れたのがこの歌なのである。

 「和泉式部は恋多き女」と当時も思われていたようである。現代の読者もそうした先入観をもって読むかも知れない。それも一つの読み方ではあるが、しばらくは作品に沿って読んでゆきたいと思う。

 作品は次の一文で語り出されている。

夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮すほどに、四月十余日(よひ)にもなりぬれば、()(した)くらがりもてゆく。

 「女」は、故宮の一周忌が近づく四月、故宮を偲びながら悲しみのうちに日々を送っている。故宮は死に、何もかもが「夢よりもはかなき」ものだなあというのがこの時の「女」の気分なのである。

 そして、先述の歌を宮に返す時の「女」の心中は次のように語られている。

「なにかは、あだあだしくもまだ聞こえ給はぬを、はかなきことをも」と思ひて、

(「色好みだという宮の噂もまだ聞いたことがないが、たわいないことをも」と思って、)

 自分が歌を遣ることを「はかないことを」と言う。また、後に挙げるが、宮の歌に対しても「はかなきことも目とどまりて」という叙述がある。送られてきた恋の歌についても「はかないこと」と言うのである。「女」にとっては、歌も歌で心を交わすのも、とりとめのない「はかなきこと」なのである。

 後日、宮から歌が送られてきた時の「女」について、

もとも心深からぬ人にて、ならはぬつれづれのわりなくおぼゆるに、はかなきことも目とどまりて、

とある。「女」は「思慮深くなくて、故宮の死後の寂しさがどうしようもなく耐えがたくて」と、宮の歌に心をとめる女のさまを、作者は語るのである。

 歌のやりとりも男女の交際もはかないことと思いながらも、それに心を委ねずにはいられない、そんな「女」を一章・二章で作者は提示しているのである。

 一方、「宮」についてはどうか。先の「あだあだしくもまだ聞こえ給はぬを」は、まだ女のもとに通っているという噂もないようだという、宮に対する「女」の評言であった。次は、先の「女」の歌への宮の返歌。

同じ()になきつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや

 ほととぎすになぞらえて「私の思いも兄宮と変わることはない」と言うのであるが、その際、小舎人童(こどねりわらわ)には、「歌のやりとりは決して人に言うな、好き者めいて見られるから」と口止めするのである。

 「宮」については、男女のことには不慣れな親王として作者は登場させているのである。

2022年8月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第一一段・第六八段ほか

鴨長明と和歌

 鴨長明が自身の歌を話題にした章段を見たい。

 第一一段。賀茂社の歌合に「月」の題で詠出したのが次の歌である。

① 石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞ澄む

(新古今一八九四)

 判者は源師光(もろみつ)であったが、歌枕として「瀬見の小川」という川などあるものか、として負けにされてしまう。その後、この時の判定が不評判で、改めて顕昭(けんしよう)法師が判をした時に、この歌については、「『石川・瀬見の小川』いとも聞き及び侍らず。ただし、をかしく続けたり」と勝敗は保留にされた。後日、「瀬見の小川」は賀茂川の異名だと長明が顕昭に明かしたところ、顕昭は、知る者に尋ねてからにしようと保留にしたのは「老いの功」であったなあと言ったという。

 当時の判者は、地名などの歌枕はすべて心得ているというのが普通であり、判者の自負でもあったようである。現在でも、歌に詠み込まれた固有名詞は、その知名度により読者の受け止めが異なることは考えておかねばならないことかも知れない。ちなみに、「瀬見の小川」は現在では下鴨神社の糺の森を流れる小川をそう呼んでいるらしい。

 長明のこの歌以降、この川を詠む者が次々と現れて、初めに詠んだ長明の手柄はどこへやらということになるのだが、それでものちに、この歌が『新古今集』に採入されるのである。

 長明は、賀茂神社の禰宜の次男として生まれ、禰宜を引き継ぐべき立場にあった。(結局それは叶わなかったのだが。)賀茂川の清流に月がその澄んだ姿を浮かべて宿っている、というこの歌への長明の思い入れは深く、『新古今集』に十首採られた歌の中でも、この歌の入ったことが「生死(しやうじ)の余執ともなるばかりうれしく」と述べているほどである。

 第六八段「会の歌に姿分かつこと」。長明が和歌所寄人(よりうど)として出仕していた頃、後鳥羽院の御所で特別な歌の会が催された。召されたのは、藤原良経・慈円・藤原定家・藤原家隆・寂蓮、そして鴨長明の六人。後鳥羽院から、「姿」(詠みぶり)を変えて六首の歌を出せ、と(めい)が下されている。「春・夏は太く大きに、秋・冬は細く(から)び、恋・旅は艶にやさしくつかうまつれ」という指示である。その時に詠出した長明の歌が六首、文章に添えられている。その中から一首、「太く大きなる歌」(空間的に広がりのある雄大な歌)としての春の歌を引く。

② 雲さそふ天つ春風かをるなり高間の山の花ざかりかも

(三体和歌)

(雲を誘い寄せて天を吹く春風が香るばかりである。高間の山(金剛山)は今や桜の花盛りだろうよ。)

 続く第六九段には、寂蓮に前もっていくつかの歌を見せたところ、寂蓮が②の歌を「よし」としてくれたというその時の交流が述べられている。また、歌体について述べた第七一段では、普段は歌会などでもはっとさせられる歌はあまり無いのだが、この後鳥羽院の御会では、「この道ははやく底もなく、際(きは)もなきことになりにけり」(歌の道はもはやはてのないこと)と、恐ろしくなったと回想している。錚(そう)々(そう)たるメンバーと肩を並べて後鳥羽院の御前に出たという長明の晴れがましさが想像されるのである。そこで詠出した六首の歌にも自負と誇らしさを感じていることが、文章からもよくわかる。

 『千載集』に長明の歌が一首採られている。次の歌である。

③ 思ひ余りうち()る宵の幻も波路を分けて行き通ひけり

(千載集・九三三)

 「海路を隔つる恋」という題詠である。(この時の歌会の様子が第三段に語られている。)玄宗が楊貴妃の魂を求めて道士(幻術士)を遣わすという「長恨歌」の一節を下敷きにしていて、心境を幻想的に詠んだロマンあふれる歌である。

 第一二段に「千載集に予一首入るを喜ぶこと」の文章がある。自分の歌が『千載集』に採られたことを、長明は素直に喜んで、次のように言う。「させる重代(ぢうだい)にもあらず、詠みくちにもあらず、また、時にとりて人に許されたる好士(かうし)にもあらず、しかあるを、一首にても入れるは、いみじき面目なり」重代(歌人輩出の家系)でもなく、詠みくち(うまい歌詠み)でもなく、当世の人に一目置かれる好士(風雅の人)でもない、というのが、この時の長明の自己認識である。

 この長明の喜びようを見て、長明の雅楽・琵琶の師匠であった筑州(中原有安(なかはらのありやす))の言った言葉もおもしろい。〝この集を見れば、大したことのない人が十首・数首と入っている。それを面白くないと思うのが普通だろうに、一首入集をこのように喜んでいる。すばらしいことだ。〟「道を尊ぶには、まづ心をうるはしく使ふにあるなり」と、長明の歌道に対する謙虚な姿勢を褒めている。

 筑州の言葉どおり、先の言葉に見る誠実さ・謙虚さは、まさに長明の特質のように思えるのである。

 『無名抄』は、全体が和歌に関する覚え書きであり、『無名抄』自体が長明の和歌への思い入れの深さを物語っていると言えよう。師事した俊恵の言葉を記録した章段も多いのだが、第七一段では長明自身の和歌についての思索が問答形式で記されている。「すべて歌のさま、世々に異なり」と、『万葉集』以来の歌の流れを見ながら、歌の新旧の有り様を捉え、今の歌のあるべき姿について考えている。また、「幽玄」とはといったことにも触れている。時代は違うが現在からしても示唆に富む内容ではないかと思う。『方丈記』で知られる鴨長明を、歌人として見る人は少ないかと思う。長明自身も、和歌の道で大家として名を成そうなどとは考えなかったに違いない。ただ、真摯に誠実に和歌と向き合う長明の姿勢は、今にしても大切なことだと思われるのである。

 『無名抄』を読みながら、どのようなものを短歌と呼ぶのか、などと考えさせられている。

(久保田淳訳注『無名抄』角川ソフィア文庫をテキストとした。)

2022年2月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第五八段・第五九段

俊成自讃歌のこと

 『無名抄』の第五八段に、俊恵(しゆんえ)が藤原俊成(しゆんぜい)に、自身のおもて歌(代表歌)について尋ねた話がある。

 俊成は、

① 夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里

を挙げ、「これをなむ、身にとりてのおもて歌と思ひ給ふる」と言う。俊恵は、

② 面影に花の姿を先だてて幾重(いくへ)越えきぬ峰の白雲

という俊成の歌を挙げ、世間ではこちらをすぐれていると評判だが、と重ねて尋ねる。俊成は、世間ではどう言われようと①の歌には「言ひ較ぶべからず」と言い切ったという話である。

 歌作りをしている人が「あなたの代表歌は?」と問われたとき、どんな基準で歌を選ぶだろうか。自作の歌にはどれにも愛着はあるはず。最も思い出深い歌を選ぶか。または自信作として自らの歌の理念を最もよく体現しているものを選ぶか。平安末期の歌人たちはおそらく後者であったろうと思うのである。

 ②の歌では、桜花を幻影として追い求める、あくがれの心が魅力的である。白雲を花と見まがう伝統的な機知もはたらいており、情感のこもる美的境地が示されていると言える。

 ①の歌は、秋の夕暮れ、草深い野に鶉が鳴くといううら寂しい景を詠う。秋風が身にしむというしみじみとした心持ちが素朴に叙されている。

 俊成は、言葉巧みな華やぎを持つ②よりも、①の歌のような幽暗な情感のただようものを、良しとしたようである。

 それに加えて、①の歌は、『伊勢物語』一二三段を踏まえていることが知られている。

 その話では、男が、通っていた女に別れをほのめかす歌を詠む。

年を経て住み来し里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ

それに女は、

③ 野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ

と返歌する。――あなたが通って来なくなって野原となってしまったなら、私は鶉となって鳴いていましょう。あなたは「仮り」にも狩りに来ないことはないでしょうね。

 これを踏まえれば、①の歌の「野辺の秋風身にしみて」には、この女のけなげにも可憐な心情を哀れむ、否むしろ、女のかなしみに同化して共鳴する詠み手・俊成の情感が感じとられるのである。

 つまり俊成は、いわば本歌取りとも言える手法の歌を良しとしたと言えそうである。②のような、技巧的な言葉の駆使による情趣とは別に、さらりと詠み流しながらも物語や先行歌の情趣をも取り込んだ①を、おもて歌として自負したというわけである。

 その子藤原定家が活躍する『新古今集』の頃になると、本歌取りのみならず掛詞や縁語など、一つの語が複合的な意味合いをもって用いられる技法が盛んになる。俊成の自歌へのこの評価は、そうした修辞が盛んになる先駆けとも言えるかも知れない。

 次の一首は、同じく伊勢物語を踏まえた俊成の歌。

またや見む交野(かたの)御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙

 在原業平が惟喬親王に随行して桜狩りをした話が踏まえられている。「またや見む」が、業平の思いと重なりながら、その時を惜しむ切実な思いを表現している。

 短歌(和歌)は三十一音の文芸である。多くを語ることはできない。その際、一つの語や語句を先行の文化を含み持つものとして、作者と読者が共有できるとすればおのずから歌の広がりも確保できるというものであろう。当時は「鶉」と言うだけで、③の歌や伊勢物語の女が、その背景としてイメージされたのである。現代においては、そうした伝統的文化の共有は心もとなく、むしろ語は、その語の概念やら表象のみが決め手であり、語の適確な使用・享受が求められると言えるだろう。

 とは言え、現代においても先行の歌を踏まえた歌やその一部を引用した歌が詠まれたりもしている。

 ちなみに、最近出会った歌を挙げてみる。

この蛸も壺に入りしか夏の月明石(あかし)から来てわれに食はるる

河野美砂子

 「蛸壺やはかなき夢を夏の月」芭蕉の句が下敷きになっている。「明石」は「明かし」を掛ける。

鯉の子かもだえの子かと見てをれば春の水路に泥はまひたつ

真中朋久

 鉄幹の「われ()の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子」をシャレにしている。

 ところで、俊恵が鴨長明に向けてこの俊成自讃歌の話を語ったのは、実は、①の歌の難点を指摘するためであった。私のテキストでは第五九段になるが、右の話に続けて、「『身にしみて』といふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり」と俊恵は言う。つまり、「身にしみて」などと言わずに、景を叙することでさぞかし身にしみたことだろうと感じさせたなら品格のある良い歌になっただろうに、というのである。

 「かなしい・さびしい」などの心情語は避けよ、などと現在も言われることがある。だが、それはケースバイケースで、その歌の中で判断されるべきである。心情語を用いた歌も現在多くあり、歌によっては直接に心情を表現することが必要かつ有効な場合もあるのである。①の歌において「身にしみて」は、先に述べたように、歌の情趣を支える大切な句であり、俊恵の指摘は当たらないのは言うまでもない。

 俊恵と俊成は一歳違い。ここでの俊恵の語りには、俊成に対する対抗意識が反映しているのかも知れない。料簡が狭いともとれる批評を弟子に聞かせたのも、歌人としての力量の誇示であったとも言えようか。これを聞いて長明がどう考えたかは分からない。自らの記憶をたぐり寄せてひたすら書き留めているのである。

2021年10月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第八段ほか

歌人たちの生きる姿

 『無名抄』に登場する、二人の歌人を紹介したい。

 〔第二八段〕に敦頼(あつより)入道(法名では道因入道)が登場する。藤原忠実(ただざね)宅での催しで、召された傀儡(くぐつ)(漂泊の芸能者)が俊頼(としより)の歌を曲にのせて唄った。俊頼は、自分の歌も世間で唄われるまでになったかと喜んだという。この話を聞いた永縁僧正(ようえんそうじよう)は、琵琶法師に金品を与えて自分の歌をあちこちで歌わせて評判になったが、それを羨んだのが道因入道。彼は、物も与えずに琵琶法師に自分の歌を「歌え、歌え」と責め立てたので、世間で笑いものになったというのである。和歌を認められたいという名声欲、その思い入れはすさまじくも微笑ましい。

 〔第六三段〕(道因歌に志深きこと)に、道因入道の、歌に寄せる熱意のさまが語られている。

 七、八十歳になるまで「秀歌詠ませ給へ」と、毎月歩いて住吉神社へ参詣したという。歌合で自分の歌が負けた時には、判者に詰め寄って涙ながらに恨み言を言ったこともあった。九十歳ほどになって耳が遠くなった頃には、歌会などあれば、講師(歌を読み上げる者)の間際に陣取って、何事も聞き逃すまいという姿勢だったという。九十二歳で亡くなっている。のちに藤原俊成(しゆんぜい)が『千載集』に道因入道の歌を十八首選入したところ、俊成の夢に道因入道が現れ、涙して礼を述べたという。俊成はあわれを感じ、さらに二首を加えて、二十首を選入したということである。

 この当時の歌人たちの、和歌への思い入れの強さは以前にも触れたところである。だが、この道因入道の話を読んで、こうした執念とも言うべき熱意がどこから生まれてくるのかと、あらためて考えさせられるのである。

 名声欲と書いたが、和歌の才能を認められ名声を得たい、そうした思いはもちろんあるだろうが、それだけではここまでの執着は生まれないだろう。短歌を作る我々も同じで、文化としての短歌(和歌)の持つ魅力に心惹かれてのことに違いない。なぜ短歌(和歌)を作るのか、それを考えると不思議な気がしてくる。

 歌に限らず生活の中にある文化的なものへ自分の熱意を傾けることは、生きる姿そのものだとも言えようか。熱中できるものを持つということはすばらしいことに違いない。心傾けてきたものへの熱がさめ、それを捨て去ろうとするとき、それはすでに自分の中に死を招きいれることだという気がする。

 自省などどこ吹く風のように、和歌に邁進した道因入道は、幸せな人だったと言わねばならない。

 〔第八段〕に源頼政(よりまさ)の話がある。頼政は、建春門院北面歌合に出す歌を、俊恵(しゆんえ)に見せて意見を求めるのである。それは次の歌。

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉(もみぢ)散り敷く白河の関

 俊恵は、能因(のういん)の歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」に似ているが、「これは()()えすべき歌なり」(人前に出して見栄えがする歌だ)と応じた。頼政は、「ならば歌合に出すが、負けたなら責任をとってもらうぞ」と言って出かけてゆく。頼政は俊恵より九歳年上なので、俊恵を頼りつつも横柄であるが、一生懸命である様子がよくわかる。俊恵は、推挙した自分の名誉にも関わることとして歌合の結果に気を揉んでいたが、その評価に違わず、勝ったという知らせが届く。

 因みに、頼政の歌は能因の歌の本歌取りである。能因の歌が「霞」と「秋風」という目に見えないものを対照させているのに対して、頼政は「青葉」「紅葉」と色彩感のある季節のものをあげ、「白河」の白につなげたのである。能因の本歌あっての新しい趣向が「出で栄え」したのだと言えるだろう。

 〔第五六段〕で、俊恵は頼政を「いみじかりける歌仙なり」と語っている。「心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず心にかけつつ、(中略) 立ち居起き臥しに風情をめぐらさずといふことなし。」彼の日常がなべて歌であるとの賛辞を送る。また後半では、頼政は歌会に備えては前もって歌を作って準備を怠らなかったことが語られている。そして、歌会では、心を込めて歌を詠じ、真摯に批評をし、歌と深く向き合っていたことを述べ、「かの人のある座には何事もはえあるやうに侍りしなり」と結んでいる。

 〔第五五段〕は俊成の言葉を書き留めた段であるが、俊成もまた、「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」と頼政を評価し、そして、会の席に彼がいるだけでおのずと注目されて、してやられたと思うほどであったと語る。

 俊恵(しゆんえ)俊成(しゆんぜい)も、歌会などにおける頼政の存在感を指摘する。場に華やぎをもたらすそうした頼政の存在感はどこから来るのであろう。彼の和歌への傾倒の深さによることはもちろんであるが、そこには頼政の「真摯な演出」とでも言えるようなものがあったのではないかと思われる。俊恵の言葉に、「立ち居起き臥しに風情をめぐらさずといふことなし」とあった。歌を余念なく準備するとともに、歌会などでの自らの振る舞いやその場の有り(よう)をも、歌の趣に準ずるものとして、意識的にプロデュースしていたような気がするのである。彼の真摯な気質が知らず知らずのうちに場を演出していたとも言えようか。

 宇治平等院の境内に、源頼政が切腹した地と伝えられる「扇の芝」がある。頼政は、平治の乱以来、平家政権下で出世を果たすのであるが、一一八〇年(治承四年)、平家に反旗を翻し、以仁(もちひと)王をたてて挙兵した。そして、その戦に敗れ、平等院で自害している。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ哀れなりける

 これがその時に頼政が詠んだ辞世の歌である。頼政はあらかじめ辞世の歌を作っておいたのであろう。戦に敗れることは頼政の想定の内にあり、平等院での自害もすでに予定されていたのかも知れない。言わば自らの死までをプロデュースして生きたという気がするのである。

 がむしゃらな道因入道と準備周到な源頼政、歌に心傾けた二人の、おもしろい生き様である。

2021年6月1日

渡岸寺観音堂(向源寺)を訪ねて

 渡岸寺(どうがんじ)は、十数年前に一度訪ねたことがある。雪のために遅れている電車を長浜駅で一時間余も待って、高月に着いたのは昼すぎだった。膝まで雪に埋もれさせながら歩いて行ったのを思い出す。「なぜか渡岸寺は雪というイメージと結びついて」いるという永田さんの記憶そのままである。

そう言えばいつか湖北を歩きたり雪の渡岸寺おぼえているか

永田和宏

 かつて共有した時間を懐古するこの歌を支えているのは、当然ながら渡岸寺である。琵琶湖北辺、冬は雪に閉ざされる地に、その土地の人々の信仰を集めてきたであろう渡岸寺がある。「雪の渡岸寺」――渡岸寺を知る者にとってはそれだけで一つのロマンである。

 四月二十一日、渡岸寺再訪。晴れてあたたかい日であった。高月駅で電車を降りた客は一人。駅舎を出ても人影はない。駅前には駐車場が作られ、道路はきれいに整備されていた。「国宝十一面観音像」の矢印に従って歩き出す。町なかにも人影はない。農家風の家の庭に、柿の木が若葉を芽吹かせている。その下には牡丹が花をつけていた。静かな町である。道は観光客向けにおしゃれに舗装され、道案内の鉄の標識板がはめ込まれてもいた。高時川から引かれているのだろうか、水路が流れ、その傍らに石柱の道標が建てられている。「左 観音堂 右 高月駅へ七丁」左を向くとすぐそこに渡岸寺の山門があった。

 十一面観音菩薩像は、以前は薄暗い本堂で拝観した。今は本堂横の収蔵庫に安置されている。この体験も永田さんと同じ。永田さんはこの措置を、「残念という思いを禁じえない」としているが、そうとも言えない。密教ふうな宗教的雰囲気に信仰の有りようを味わおうとする仕方もあるが、一方、仏像を芸術的な彫像として鑑賞する仕方もあろうと思う。収蔵庫に収められて、適切な照明のもと、前からも後ろからも菩薩像を鑑賞できるようになったのである。

 檜一木造り、像高百九十五センチ。瞑目するしめやかな顔。右手を膝まで伸ばし左手には水瓶(すいびょう)を持つ。水瓶に添えられた指の繊細なこと。後ろにまわると、腰をくっとわずかに曲げていることがわかる。その腰のくびれはなよやかで、女体を見る思いがする。

 僧泰澄の作と伝えられているが、作者不詳。仏師は、一本の丸太の中に一つの像を思い浮かべ、それを具現してゆく。その信仰に支えられた執心と技術を思う。仏像であるからには、それまでの伝統的様式に則りながら、その上で自らの思い入れをも顕現せしめんとして彫り上げていったに違いない。仏の面立ち、唇のかたち、腕や指の曲線、衣の襞、体躯のひねり、細部にまで仏師独自の思いがこめられているのだろう。美しい観音像である。

 戦国時代の戦火のもと、観音像を土に埋めて守ったという塚が境内に残されている。長く人々の信仰の拠り所であった観音像も、今は半ば観光の対象となっている。しかも、多くの観光客を呼び込むまでには至っていない。そうした中、かつての歴史を大事にし、併せて広く来訪者を期待しているらしい、その町の施策を貴重なことだと思った。

 水路に沿った舗装路を帰ってゆく。この川に梅花藻は咲かないのかなあ、などと思いながら、高月図書館(井上靖記念室)へ向かう。井上靖の小説『星と祭』復刊のプロジェクトが組まれているという。

 駅前にある「十割蕎麦」の店で蕎麦を食べた。その味も含め、「晩春の渡岸寺」は私のなつかしい記憶のひとこまとなった。

あたらしき石のしるべに誘はれ渡岸寺(どうがんじ)へと歩む晩春

   (「塔」2020年8月号)

2021年4月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第二七段

貫之・躬恒の勝劣

 『無名抄』には聞き書きの段が多いのだが、第二七段も「俊恵(しゆんゑ)法師語りていはく」と始まり、俊恵(しゆんえ)の語りをそのまま引用している段である。

 長明は、俊恵(しゆんえ)を和歌の師としていた。俊恵は、京都白川に僧坊をつくって歌林苑(かりんえん)と名づけ、歌会や歌合を催して多くの歌人を集め、歌壇の一大勢力をなした。俊恵の父は、『金葉和歌集』を撰した源俊頼(としより)。藤原基俊(もととし)と共に院政期の歌壇の指導的位置にあった人である。

 第二七段は、藤原実行(さねゆき)と藤原俊忠(としただ)(どちらも平安後期の歌人)が、紀貫之(きのつらゆき)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の、どちらが勝れているかを議論したのが発端である。議論の決着はつかず、俊忠(としただ)は白河院に判断を仰ぐが、白河院は「俊頼(としより)などに聞け」と(かわ)す。そこで、参内した俊頼に事情を告げて意見を求めたところ、俊頼は、「躬恒(みつね)をば、な(あなづ)らせ給ひそ」(躬恒を軽く見てはなりません)と答える。貫之派(?)であった俊忠(としただ)は「では、貫之が劣っているとお考えか」と迫るのであるが、俊頼は、「躬恒をば(あなづ)らせ給ふまじきぞ」と繰り返すばかりだったというのである。

 「まことに、躬(み)恒(つね)が詠みくち、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」と、俊頼の意を汲んだ形で感想を述べて、俊恵(しゆんゑ)はこの話を語り納めている。

 紀貫之(きのつらゆき)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)はともに『古今和歌集』の撰者である。『古今集』には、紀貫之一〇二首、凡河内躬恒は六〇首、入集している。

 現代において例えば、石川啄木と与謝野晶子のどちらが勝れているか、などと議論になることはない。もちろん、先人の歌から学ぶ、教養として知る、短歌の歩みを考える、等々はあることであるが、優劣をつけようとは考えないはずである。その点、平安後期の歌人たちは、『古今集』などの古歌に学びながら、自分の規範とすべき和歌というものをそんな形で探っていたのである。古歌の評価と今後のあるべき和歌の姿は一直線上にあったとも言えようか。

 俊頼の含みを持たせた受け答えは、当時の歌壇第一人者としての風格を感じさせるものである。

躬恒(みつね)をば、な(あなづ)らせ給ひそ

『古今集』第一の歌人として紀貫之があることは言うまでもない。それを承知の上で、躬恒(みつね)のすぐれていることを示唆してみせたのである。

 ところで、貫之と躬恒はどう違うのか。教科書などに採られる有名なものとして、次のような歌がある。

袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ

紀貫之

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

凡河内躬恒

 『古今集』の頃の歌は、おおむね花鳥風月、雪月花、恋や旅などの風雅が、春夏秋冬の季節の中で詠われるのが普通である。現在においては、歌に詠まれた事柄や事情・状況に、より多く注目されがちである。そんな現在からすれば、当時の歌は、題材としてはどれも大差がないと言えようか。つまりは、問題とされるのは歌のしらべ、詠みぶりなのである。

  1. 桜花散りぬる風の名残には水なき空に波ぞ立ちける

    紀貫之

    (桜の花が散る、その風の余波で、水のない空に波が立っていることだよ。)

  2. 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる

    凡河内躬恒

    (春の夜の闇は奇妙なものだ。梅の花の、色は見えないものの、その香は隠れようものか、隠れはしない。)

 この二首を比べてみよう。

 先に挙げた二首も含めて、歌が知的な操作・機知によって風雅を醸し出しているところはみな同じである。どううまく言いなしてやろうかと歌人たちは腐心したに違いない。(1)は、桜花の散る様を波に見立てたもの。今なら「水なき空」とまで言うのはあざといと評されるかも知れないが、水がないのに波が立つというところが、新鮮であったはずである。(2)の歌も、闇の中から梅の香がすると言えばそれまでだが、それを知的に把握して見せるのである。

 (2)の歌の詠いぶりだが、上の句で「春の夜の闇は不可思議なものだなあ」と詠う。「あやなし」と詠んでおいて、そのわけを下の句で明かすという、いわばもったい付けた言い回しなのである。しかも、香を漂わせる闇を言うために、結句で反語まで用いている。(1)では、主題の桜花が提示され、波が立つという比喩まで一直線に詠む明解さがある。その詠みぶりの違いは瞭然と言えよう。さらに、(2)の歌からは、春の夜の闇を見ながら、(色は見えないが香は隠れようがないのだなあ、これが春の夜の闇の魅力だろうよ)などと思いやっている詠み手の姿を思ってしまうのである。それに対して、(1)は、見上げている詠み手がいるのは当然だが、むしろ桜の散る空の有り様を美的に造形していると言えようか。貫之が対象をそれとして美的にとらえようとするのに対し、躬恒は、そこに自身の思考を絡ませてゆくようなところがある。言い換えれば、知的な把握と表現の背後に、詠み手としての情が動いていると言えそうなのである。

 とは言え、紀貫之も凡河内躬恒も同じ時代に生きた歌人である。それぞれに個性を持ちながら、また互いに互いの影響も受けていたはずである。図式的に比べることは無理な話で、それぞれの歌を実際に味わうほかないことだろう。

 鴨長明もまた、俊恵(しゆんゑ)の言葉をきっかけにして、躬恒の「詠みくち」(詠みぶり)、思い入れの深さの有りようを見直したのではないだろうか。そうして自らの詠む歌のことを考えていたに違いない。

〈参考〉平安後期の主要な歌人

  • 〈六条家歌系〉 藤原顕輔(あきすけ)――清輔――
  • 御子左家(みこひだりけ)歌系〉 藤原俊成(しゆんぜい)――定家(ていか)――為家
  • 〈藤原北家流〉 藤原基俊(もととし)
  • 〈長明の師系〉 源俊頼(としより)――俊恵(しゆんえ)――(弟子長明)

   (「短歌堺」第73号 2021.04)

2021年4月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第二段・第三二段

歌の中で言葉は生きる

 次は、『無名抄』第二段の語り出しの一文である。

 歌はただ同じ言葉なれど、続けがら、言ひがらにて、よくも()しくも聞こゆるなり。

 同じ言葉であっても、歌の中での使われ方によって良くも悪くもなる、というのである。そして、次の三首が例として示されている。

  1. 夕されば佐保の河原の川霧に友まどはせる千鳥鳴くなり

    紀友則(きのとものり)

    拾遺集・冬

  2. 恋しきにわびて(たましひ)まどひなば(むな)しきからの名にや残らむ

    よみ人知らず

    古今集・恋二

  3. 人を思ふ心はわれにあらねばや身のまどふだに知られざるらむ

    よみ人知らず

    古今集・恋一

 同じように「まどふ」という語が用いられているのだが、(1)は素晴らしいが、(2)や(3)は大仰に聞こえて拙いと筆者は言う。(2)は、恋しさのあまり魂が抜け出たなら、身は抜け殻となって噂にもなろうか、の意。恋の身のつらさを歌ったものである。(3)は少し意味がとりにくいが、腑抜けのような我が身を思う歌である。対して、(1)は、佐保川の夕霧にまぎれて鳴く、友とはぐれた千鳥の声を歌う。夕刻の具体の景がしんみりとした情感を醸し出している歌である。

 ここでの歌の評価には、想念のみの叙述よりは具体的な事象を詠み込んだ歌の方をよしとする、筆者長明の和歌観(?)が反映しているかも知れない。

 見ておくべきは、「まどふ」という抽象語に対する筆者の繊細なチェックの姿勢。さらには、『古今集』に採られている歌にも拙いものはあるとする、権威を絶対化しない柔軟な姿勢、であろうと思う。

 挙げられたもう一つの例は、次のひと組の歌である。

  1. 春霞立てるやいづこみ吉野の吉野の山に雪は降りつつ

    よみ人知らず

    古今集・春上

  2. 神垣に立てるや菊の枝たわに()手向(たむ)けたる花の白木綿(しらゆふ)

    よみ人知らず

    出典未詳

 同じく「立てるや」と詠みながら、(5)の歌は下手くそだと述べられている。私が思うには、「立てるや」という語も問題であるにせよ、そのあとの菊を白木綿に結びつけた発想がわざとらしいのではないかと、そんな気がしている。(どうでしょうか?)ともあれ、心惹かれた句や言い回しがあったとしても、それを安易に用いてカッコつけるべきではないということか。

 途中にもう一例、次の歌が挙げられている。

  1. 播磨(はりま)なる飾磨(しかま)に染むるあながちに人を恋しと思ふころかな

    曾禰好忠(そねのよしただ)

    詞花集・恋上

 「あながちに」という語は歌には詠まないものだが、この歌の場合「飾磨に染むる」を受けて優美な気分を醸している、と筆者は言う。飾磨産の染め物の(かち)色(濃紺色)が序詞となって、ひたすら一途に、という「あながちに」が生きたと言うのである。

 そのことの判断はおくとして、「あながちに」は歌語としては不適だと筆者が考えているところが面白い。現在は何でもあり、である。口語、方言、会話文、省略語、何だって歌に詠み込んでいい。そうではあるが、筆者の言う「続けがら、言ひがら」、歌一首の中でのその語の語感や表現の効果を、十分に吟味すべきかと思う。

 『無名抄』第三二段に、藤原基俊(もととし)が源俊頼(としより)の歌をけなす話がある。俊頼、基俊、ともに平安後期の歌人で、当時の歌のライバル同士である。

  1. 明けぬともなほ秋風のおとづれて野辺のけしきよ(おも)がはりすな

 歌合の場に出されたこの俊頼の歌を、基俊は、「いかにも歌は腰の句の末にて文字据ゑつるに、はかばかしきことなし。(ささ)へていみじう聞きにくきものなり」と非難した。第三句で「て」とつなぐのは大した歌とは言えないとこきおろしたのである。これに対し、列席していた琳賢という人が「同じような証歌がある」と言って、次の歌(8)の上の句、「桜散る木の下風は寒からで」を朗々と吟じた。「で」は「ずて」のつづまったもので、三句目を「て」でつないだ歌の例証歌に充分なるのである。

  1. 桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける

    紀貫之

    拾遺集・春

 同じような証歌ならどうせつまらぬ歌だろうとうそぶいていた基俊だったが、その上の句を聞くや、真っ青になってうつむいてしまった。有名な紀貫之の歌だったからである。

 第三句末の「て」は駄目だ、という基俊の論は、同じ用法を用いた紀貫之の歌を証歌として出され、もろくも崩れてしまった。

 そのもろさの原因は、歌を批評する際に、その歌そのものからではなく、持論をもって評したところから来ている。現在でも、擬人法はよくない、動詞は四つまで、同じ助詞を重ねると単調、四・四音の句は避けたい等々、それまでに得た知識をもとに歌を評することがあろうかと思う。そうしたいわば固定観念をもって歌に向かうのではなく、あくまでもその歌の中でのその言葉の働きを見なければならない。一首全体を見ずに、一点でのみ持論を言うのは本末転倒である。

 ところで、三二段の話は、自分勝手な評をする基俊を、紀貫之の歌を証歌にしてへこませたのだが、そこでは、(8)の歌を皆が知っていて、しかも名歌だと認めていることが前提になっている。現在、有名な歌人の歌だからといって、歌もいい歌だと無条件に考える人はいないはずである。著名な歌人が同じような言葉、技法を用いているからといって、その歌の評価にはもちろんつながらない。その意味では、(7)の歌について、「て」が不自然なものでなく、歌の中で生きていることを主張するというのが反論の本筋なのである。

 鴨長明は、はじめに述べたように、古歌の伝統を重んじながらも、古歌も一首の歌として読む、いわば相対化の視点を持っている。第二段では、古歌にも善し悪しはあるとして、次のように述べている。

 されば、「古歌に確かにしかしかあり」など証を出だすことは、やうによるべし。その歌にとりて善悪あるべきゆゑなり。

 先入観にとらわれず、言葉をその歌の中で生きているものとして捉えたいと思う。

   (「短歌堺」第72号 2020.12)

2021年4月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第一段

題詠――歌のテーマということ

 鴨長明(かものちようめい)の『無名抄(むみようしよう)』を読んで、思ったことを自由気ままに述べてみたい。

 鴨長明は、随筆『方丈記』でよく知られているが、鎌倉時代前期の著名な歌人の一人でもあった。『千載集』に一首、『新古今集』に十首、ほかを含め二十五首が勅撰集に入集している。『無名抄』は、その晩年に書かれた随筆風な歌論書である。逸話なども含め、八十余段の文章から成っている。

 当時は、後鳥羽上皇やら和歌の家系の公卿やらを中心に歌会・歌合が催されており、歌合において勝者となることは、歌人としての名声を得ることにつながり、ひいては出世の足がかりにもなっていたようである。そして歌人としての究極の名誉は勅撰集に入集することであった。平忠度(たいらのただのり)が都落ちに際して、藤原俊成(ふじわらのしゆんぜい)に『千載集』入集を懇願しに出向いた逸話にもあるように、歌人たちの歌への思い入れには並々ならぬものがあった。

〈題の心〉

 第一段は「題の心」、題詠についての心得が述べられている。歌合では、あらかじめ歌の題が出されて左右に分かれ歌の優劣が競われる。歌の大勢は題詠なのである。書き出しはこうである。

 歌は題の心をよく心得べきなり。

 出された題の意味、趣旨をよく理解せよ、ということである。現在でも題詠が行われているが、現在の題詠の題は多く単語で与えられ、その題は作歌のひとつの契機でしかない。思うところを自由に詠めばいいのであるが、この当時の題詠は場面・状況をさらに限定したものであった。「暁天落花」「雲間郭公(ほととぎす)」「海上明月」などの例が挙げられている。他に、「海路を隔つる恋」「夏を(ちぎ)る恋」「水鳥近く()る」「秋の暮れの心」といった風である。

 与えられた題の、どこに情趣を感じ取るべきなのか、その主眼とすべきところをきちんとわきまえなければならないという訳である。それには、当時の一般的な美意識というものがある、また、権威ある出題者へ配慮も欠かせない。その上で状況設定や言い回し、詠みぶりで独自性を出さねばならないということになる。

 また、題の歌はかならず心ざしを深く詠むべし。

 次に述べられているのは、歌のもつ思い入れの深さである。恋なら愛情がほとばしるように、花を惜しむなら命と引き替えにするほどの思いで、と続く。歌合などで、同じ程度の歌ならば、題に対して思いがより深い方を勝ちとするのだ、と書き添えられている。題を踏まえた上で、歌に切実な思いが込められていることが重要だというのである。

 ただし、題をばかならずもてなすべきぞとて、古く詠まぬほどのことをば心すべし。

 最後はただし書きである。例がおもしろい。時鳥(ほととぎす)は尋ね歩いて聞くが、鶯は鳴く声を待つ。桜は見ようと尋ねるが柳は尋ねはしない。花は惜しむが紅葉は惜しまない。題を大事にすべきだが、古くからの和歌の先例をわきまえて注意すべきだと言うのである。当時の風雅・風流の伝統の枠を意識するところ、鴨長明の穏当なところであるかも知れない。古歌の伝統も踏まえながら、その上で新しい歌を創出しなければならない、と考えていたようなのである。

〈歌のテーマということ〉

 先に述べたように、現在の題詠は緩やかなものである。また、鎌倉時代のように、題をもとにその感覚や美的表現を追究するといった共通の基盤もない。だが、歌がテーマに沿って詠まれているという点では変わることがないだろう。

 今は、歌人が自ら題を出して歌を詠んでいるとも言えよう。その端的な例がいわゆる社会詠である。新型肺炎の感染拡大の騒ぎ、辺野古米軍基地建設問題、米国での白人警官による黒人男性暴行死事件、等々、身近なところから遠い外国の事象まで、私たちの意識にのぼるテーマは様々である。それらの中から関心のある一つのテーマを選び取り、歌に詠もうとする。その際、『無名抄』の論になぞらえれば次のようにも言えようか。つまり、そのテーマにおいて何に注目し、何を問題とするのか、ということ。そして、そのことへの思いの深さとして自分の心情をつかみ取ること。それらが歌を詠む前提として意識されなければならないということになろう。テーマを、単なる題材としてではなく、主題として突き詰めてとらえるのは並大抵のことではないと思われる。

 堅苦しいテーマを例に出してしまったけれど、誰もがテーマを意識して歌を作っているわけではない。綺麗だなあとか面白いなあとか、心にとまった物事を歌にするのがむしろ普通であろう。そしてその、例えば面白いなあと思うところで、無意識にテーマを見出だしていると言えるのだろう。歌を作ったのちに「ああ、こんなことを私は思っていたのだ」と気づかされる、それも作歌の楽しみだ――というのは河野裕子の言葉だったか? いつもテーマや主題を意識していたのでは歌は窮屈なものとなるだろう。歌は、ふと浮かんだ言葉や思いを掬い上げるようにして詠むというのがいいのだと思う。そこにおのづから自分なりのテーマが醸し出されてくる、そんな気がする。

話は一転二転するが、そうは言うものの、他人の歌を読むときや自分の歌を見直すときに、その歌が何を表現しているのかを考えることは、時に必要だと思う。例えば、介護の歌があったとして、その歌が表現しようとしているのは、介護の大変さなのか、自分のがんばりなのか、はたまた人間の哀れさなのか、歓びなのか、などとちょっと抽象化して考えてみる。自分の歌については、何を言おうとしたものか、そしてそれが表現できているのか、などと推敲してみる。歌のもつテーマや主題を考えるのは鑑賞の第一歩でもある。折々にそんな風に歌がもつ主題を意識するのは意義のあることに違いない。

 鎌倉時代の「題詠」から話は逸れてしまった。『無名抄』のこの段では、心ざしを深く詠むべしこれを心にとめておきたい。このことは現在に通じる作歌の基本だと思うのである。

   (「短歌堺」第71号 2020.08)

2021年4月1日

短歌との出会いとその後の読みと

あしひきの山の(しづく)(いも)待つとわれ立ちぬれぬ山の(しづく)

大津皇子(おおつのみこ)

『万葉集』巻二・一〇七

 高校生のころ、担任の杉山先生から齋藤茂吉『万葉秀歌』をいただいた。その中でこの歌に出会った。

 大津皇子が石川郎女(いらつめ)に贈った歌ということである。あなたを待っていて山の雫に濡れてしまったよ、というだけの単純な歌だが、その単純さが心に沁みた。「山の雫」という、山全体が雫しているかのような大きな把握の仕方。そして、その雫に濡れてしまうまでひたすら待っていた時間。同じ句が結句で繰り返されるとき、山の雫はまるで「妹」を想う純情の象徴かとも思われた。単純な表現にして、純粋なきらめきをもつ、雫のような情感に心打たれたのである。

 ずっと後になって気になり出したのは、この歌が相手に届けられたのだということ。その点から歌を読み返すと、濡れてしまったということが、自分の誠実さや愛情深さのアピールであって、結句のリフレーンも恨み言のようなニュアンスを帯びてくる。この歌が自分だけのつぶやきであってほしいな、と思ったことである。ただし今も、高校生のころの読みをよしとして捨てがたい。

 次の歌も結句にリフレーンが用いられている。

吾はもや安見兒(やすみこ)得たり皆人の得がてにすとふ安見兒得たり

藤原鎌足(かまたり)

『万葉集』巻二・九五

 安見兒というのは美しい采女(うねめ)であったらしい。その安見兒を藤原鎌足が(めと)った時の歌。誰もが手に入れられないような安見兒を娶ったぞ、と言いふらしているような歌である。妻を得た喜びを無邪気なまでに表現していて微笑ましい。

 だが、采女が天皇に仕える女性であることを考えると少し事情が変わる。天智天皇が、自分に仕える采女の一人を鎌足に与えたということらしい。女性が褒美の品として物のように扱われるのは現代の感覚には馴染まないのはもちろんだが、自分が天智天皇から特別扱いされていることを得意がっている歌として読めば、何とも面白くない歌に思えてくる。この歌とどう出会うべきだろうか。

 次の歌も高校生のころに出会ったときめきの歌である。恋へのあこがれを喩えたひんやりとした雪の感触に、さわやかな初々しさを感じたものである。

やはらかに(つも)れる雪に
()てる()(うづ)むるごとき
(こひ)してみたし

石川啄木『一握の砂』

 この歌の脚注(久保田正文による)には「……そういう熱っぽい恋をしてみたい、といった意味。だが、孤独感に襲われたときの思いである。」とある。この歌の一つ前には、「何がなしに/さびしくなれば出てあるく男となりて/三月(みつき)にもなれり」があって、つまり生活に倦んだ男のさびしいつぶやきなのだ、ということらしい。そうであったとしても、この歌が提示する、爽やかな恋のイメージは素敵だと今も思う。

 歌の解釈が、時に読む人によって様々に異なることがある、そんな話を小西美根子さんが「風の帆」第21号に書いておられる。一読者においても、いつ、どのような状況でその歌と出会うかで、その歌を受けとめるニュアンスが違ってくる。それを単に読みが浅いとして片付けるものでもないだろう。けれどもやはり、背景をも含め歌まるごとを受けとめようとする中で、その歌の読みが深まれば、おもしろいことだと言えようか。

   (「短歌堺」第70号 2020.04)

2021年4月1日

大地たかこ歌集『青き実のピラカンサ』より

 大地たかこさんの歌集『青き実のピラカンサ』からいくつかの歌を紹介したい。大地さんは「塔」所属の方である。

 巻頭に「丹波杜氏」という連が置かれている。ここには、「丹波」という土地への愛着、また「杜氏」という伝統的な人間の営みへの慈しみ、といった作者の基本的な関心の持ち様が示されていると言えようか。

杜氏(とじ)さんの入りし「力湯」けふもまた開いてをりぬビルのあはひに

丹波杜氏の跡継ぎなくて伊丹よりひとつ名酒の消えてしまへり

 時代の流れの中で伝統あるものが消えてゆく、一方、残ったものが新たな現代の風景と共存している、そのことへの哀惜・哀感が詠われている。この次の連にある次の歌も、時代の移りゆきに思いを馳せた歌であろう。

〈国鉄大津駅前なかむら書房〉とあり きのふ買ひ来し新書のカバーに

 国鉄時代のままの新書カバーが今も使われているのである。思えば、動きゆく時代の中で、旧来のものをひきずりながら、新たなものを創出してゆく、その反復連続の中を人は生きているのだろう。作者自身の生活もまた、そうしたものとして捉えられているのだろうと推測する。

親戚の手伝いかもしれないが、農業に携わる歌がある。山の芋の収穫、丹波黒豆の栽培・選別など。また夫や父母や義母・祖母のふるさとに関わる歌もある。そこには、身に沁み込んだ土着の感性があるように思われる。そして、その土地に根をおろした人々の生活も、作者のおのずからなる関心となっているようである。

切りし芋を植ゑゆく作業繰り返しほいと見上げぬ雲雀の声に

黒豆の選別しつつ聞いてゐる炊けばおなじぢやと義兄(あに)つぶやくを

黒豆を刈りたるあとの畝の間にイヌタデあまた風に揺れをり

向かひあふ庇と庇のつながりて傘さすひとのをらぬ村なり

午前九時やさいばあちやんやつてきた獅子唐辛子と間引き菜のせて

 歌の中に、固有名詞が多出することと併せて、次のような語に注目させられた。

   〔腰輿(およよ)・斎王代・日陰糸・夏越の祓・神楽太鼓・船渡御・涅槃図・迦陵頻伽
    ・須恵器・角大師(つのだいし)・須磨琴・七輪・もんぺ……等々〕

 特有の風物や事柄を言い表す言葉に造詣の深い作者であることがわかるのだが、こうした語を好んで歌に詠み込むところに、作者の興味関心がうかがえよう。作者が心寄せることの一つとして、やはり伝統的文化というものがある。その例として次の歌を挙げておきたい。

水無瀬駒の厚き駒尻みてをりぬ飴色となりし黄楊のこまじり

 Cであげたような語とともに、歌集では、沢山の固有名詞が登場する。伊丹・昆陽川などの地名のほか、「ヤマザキの三色パン」や〈つぶらなかぼす一〇〇%〉など多彩である。次は、駅名自体を詠み込んだ歌である。

西北(にしきた)と縮めて呼びあふ駅のあり正午の鐘の()しづかに降り来

 西宮北口に執着しながら、その正午のしんとした雰囲気を詠んでいる。歌に固有名詞が多く使われるのは、その固有のもの自体に詠み手がこだわっているのである。単なるパンではだめで「ヤマザキの三色パン」、ジュースではだめで〈つぶらなかぼす一〇〇%〉。作者が面白がっている面もあろうが、詠み手にとってはその具体のものでなけれなならないというこだわりなのである。個別の具体にこだわり、その具体を大切にする作者の姿勢がどの歌にも見て取れよう。

 日々の出来事や見聞が丁寧に印象深く語られている歌集である。帯文に、「日常のささやかな情景のなかに、過ぎ去った記憶のなかに掬いだす、あたたかな詩情――。」とある。まさにその通りである。時の流れと土地に根付く人々のくらし、とりわけ身近な人々との日々の生活、そういったものが優しくあたたかく捉えられている。

半桶(はんぎり)の飯に合はせ酢かけゆけば待ちゐし団扇三つがあふぐ

あら次はその手で来たね、卓の()に君は柚子茶をそつと置きたり

をさなごと山茶花つんでは冷凍す春のよき日にスカーフ染めむ

みづからの手にしぼりたる乳ならむ(いひ)のとなりに供へてありぬ

キヌさんは蓬のやうな香をはなち縁に座りて空を見てをり

 最後にもう一首、遠い時間を思いやる歌を挙げる。

敷石の雨のにほひのなかにゐてとほく子どものけんけんぱつぱ

   大地たかこ歌集『青き実のピラカンサ』(ながらみ書房 2017年5月)

2017年7月13日

てんとう虫のいる風景――わが散歩時の記録

ひとところ蛇崩道(じやくづれみち)に音のなき祭礼(さいれい)のごと菊の花さく

『星宿』(昭58)

 佐藤佐太郎の歌である。佐太郎は昭和四六年、六二歳の時に東京目黒の蛇崩の地に転居、七七歳で亡くなるまでの十数年を蛇崩で過ごす。そして、すでに体に不自由をきたしていたが、毎日蛇崩の遊歩道を散歩し、その景を材として沢山の歌を詠んでいる。

 佐太郎は、見て真実を詠む以外架空で歌を作らなかったという。直接自ら体感したものをもとに歌を詠む佐太郎にとって、散歩は歌作するうえでも欠かせないものであったろう。

 この歌の「音のなき祭礼のごと」という比喩は、菊の花の咲くしづけさとはなやぎを同時に捉えていて、巧みである。景を言葉に写す際、対象への思い入れの深さと的確な表現が求められるのだと痛感する。

 さて、次は私の散歩の話。佐太郎とは全く違って気楽なものだが、私も毎朝散歩をする。山科川の川土手や六地蔵・木幡(こはた)の町の路地裏を、缶コーヒーを片手にぶらぶら歩いてくる。今ではこの一帯はすべて私の庭のようなものだとも言える。

 定番コースの木幡の町角に、レモンの木を植えている家がある。大きな鉢を玄関先に据えているのである。実を幾つかつけているが、実が色づくのは年を越してからだろうか、今はまだ緑、葉の色に紛れている。ある朝のこと、その緑の葉に真っ赤なてんとう虫がとまっているのを発見した。二匹のてんとう虫が、少し距離をおいて、葉の上にちょこんと乗っている。何ともかわいらしい。誰かにそのことを話してみたい気持ちに駆られてしようがない。

 次の日、そこを通りかかるとやはり同じようにてんとう虫がいた。ああ、まだいた、とうれしくなった。そのまた次の日、やはりてんとう虫はそこに居た。不審に思って、近づいてよく見ると、てんとう虫は作り物だったのだ。騙された。と思うと同時に、その家のおかみさんのしゃれっ気と遊び心に楽しくなった。そこで、へたな短歌を一首書きとめて記念とする。

レモンの葉にてんとう虫の真つ赤なる今朝もゐたれど おもちやなりけり

2016年12月1日

河野美砂子歌集『ゼクエンツ』を読む

 12月20日、河野美砂子「短歌教室」のメンバー14名で、歌集『ゼクエンツ』の批評鑑賞会を行なった。歌集から各々三首を選び持ち寄って、都合38首について意見を述べ合った。その後、著者の河野美砂子さんに30分ばかり歌集についてのお話をしていただいた。

 鑑賞会であがった歌を中心に、歌集『ゼクエンツ』の中からいくつかの歌を紹介してゆきたい。

 総合誌等の歌集評にもあるように、ピアニストという職業に関わる歌と人の死に関わる歌が印象に残る。ピアノに向かう姿勢と死へと向かう時間がとらえられた歌として、私は次の3首を選んだ。

ひとくぎり練習(さらひ)終ふれば床の上に死体のポーズ(シヤバアサナ)あたたかき私のからだ

 練習に一段落をつけた時の脱力感と充足感を詠う歌。「死体のポーズ」は、懸命に生ききったのちに来るものが死であることを連想させ、そこまでのひたすらな活動が生きるということなのだと「あたたかき」からだが感じさせてくれる。「死ぬために生きてゐることすぐ忘れ練習不足を今日なげくなり」という歌と同根の感性かと思う。

シューベルトの絶望の果てにまだつづく同音連打、狂はずに打つ

同音連打をきっちり演奏しきった達成感を詠う歌。「絶望」はシューベルトのものなのだろうか。同音の続くことが絶望的なのか、そのあたりは無知であるが、ともかくも、絶望が延々と続くイメージがある。たとえ絶望が果てることがないとしても、絶望は絶望のままでその生を全うするのだ、といった悲壮な情熱を思った。詠み手のピアノ演奏にかける熱意に、そうしたものが重ねられているのかも知れない。

一段づつ時は過ぎゆく 木製の手すりを握り下りてくる父

 階段を下りる父に「時」の過ぎゆきを思念する歌。少し概念的な上句だが、階段のイメージと重なる「一段づつ」というとらえ方は独特である。時間は切れめなく過ぎてゆくのだが、ものごとの変化はある時に急激におこる。この歌では、その変化が下降方向に段階的に起きてゆく。身に不自由さを持つ父が、階段を下りるように時を経て、最後は死へと至るのだろうと静思している歌だと言えようか。

 次は、取り上げられた歌の中でピアノに関わる歌。

秋の雲を(かんむり)みたいに載せてゆく暗譜できるとじぶんで決めて

五線譜をひろぐ モーツァルトの書かざりしカデンツァはわが新しく書く

さきほどは不在のdolce再現部に見つけてブラームスと少し会話す

黒ぐろと光ぬめれる楽器なり鋼鉄を内にふくむピアノは

ふれがたく黒白(こくびやく)鍵盤(キイ)整列す美しい音の棺のやうに

 3首目では、音楽家と魂を響き合わせる素晴らしさ、4首目では詠み手が対峙するピアノの物理的な存在感が言われた。5首目は、これまでの音楽が潜められているものとしてピアノはあり、それに向かう敬虔な心境が詠われていると言えよう。

 次の2首は、「永遠の挽歌」「挽歌の中で一番のもの」と評された。母への挽歌である。

いつの野か春の緑に膝を寄せこれはヨモギとおしへてくれた

むらさきの湯の舟にわがひたりつつ花の舟おもふ焼かれたれども

のこる命二十日あまりの病床に母は言ひたりセックスといふ言葉

 前掲の「一段づつ時は過ぎゆく……」と同様、距離を置いたところから母をとらえた歌。大森静佳が「母親のなかに性に繋がる身体性をみる」として、「塔」10月号で取り上げていた歌である。

笛はかるく右手にかかげたましひの旅に出たまま帰りては来ず

 河合隼雄氏への挽歌。河合氏は「たましい」という語をよく使ったということだ。この歌では、河合氏はフルートを手にして明るく去っていったようで、澄んで淋しい。

ついらくの距離やはらかく抱きよせて雨ふれり地に人に時間に

まつすぐに地球の芯へおりてゆく垂直の舵、ひかりを曳いて

 この2首は、雨の歌である。ともに下降するイメージが優しく美しく描かれているのだが、そこに死へ向かう時間といったものも感じさせられる。あとに続く、友人の死を詠う「梨の実月」の節への序奏の感がある。

 景がくっきりと見えてくる歌の魅力的なことが言われた。そんな歌が各節のはじめなどにさりげなく置かれているのもいいなあと私は思う。

「また朝が来たのだ梅雨のつかのまのひかりに鳥のこゑ鮮らけし」

「しめりつつ落葉が匂ふずつしりと冷えゐる朝の自転車のあたり」

「雪晴れの朝のひろがり公園に遠くボールを蹴りあぐる音」などなど。

 鑑賞会であげられたのは次のような歌。

ぷつぷつと芽ぶく木の芽にかこまれて耳を澄ましてゐる池の水

水の膜つんつんつつき水鉢の夏の目高は音たてたがる

うすき陽がふちどつてゆくことごとく葉をうしなひし(うれ)の黒さを

堤防の道ながくくれてゆく空につながるごとく車はしらす

どのやうにもならぬあなたをまたおもふ 石蕗の黄が空気にしみる

植物に水をあたへてしばらくを耳すましをり濡れてゆく音

きざはし、と呼べば春めく階段に植木の鉢をかかへてのぼる

虚木綿(うつゆふ)のこもる雲より日はさせりさつき通つた道なりここは

 河野美砂子さんのお話は多岐にわたった。連作では、誰もが共感しうる、景を叙した歌や季節感のある歌から入るとそのあとの特異な歌も際立ってくる、等々のアドバイス。また、ご自身の歌集については、ⅠからⅣを楽章のように構成したとして、その配慮した点についてこまかく披露していただいた。

   河野美砂子歌集『ゼクエンツ』(砂子屋書房)

2015年12月25日

小角隆男歌集『吉祥草伝説』
――歌集中のいくつかの歌の紹介

 著者の第五歌集。歌集名は、役小角(えんのおづの)の生誕時に、吉事ある時にしか咲かないとされる吉祥草(きちじようそう)が咲き乱れたという、吉祥草寺にまつわる言い伝えに因む。

 収められた歌の三分の一ほどが体言止め、併せて三句切れの歌も多い。これは、漢語の使用とも相俟って、俳句的な感性からきているのではと思われた。次の歌などは上句がほとんど俳句の詠みぶりになっている。

夏富士や弾丸列車一文字母の生家は跡形もなし

 著者の、特に漢語の語彙の豊かさには圧倒される。次の「靉靆」の読みは「アイタイ」、曖昧でうす暗い様をいう語。気分や情感を漢語や名詞によって鷲掴みにする表現を、辞書を繰りつつも楽しみ味わってゆきたいものである。

積み上げし書籍寂寂ビルに似てこころの奥処靉靆モード

 次は、飄々とした暮らしぶりがうかがわれる歌。

狩衣(かりごろも)乱れがちなる有漏の身に棚牡丹(たなぼた)のごと今朝の碧落

空身(からみ)にて出かけるわれに門の辺の蟬声かしましほつといてんか

ルサンチマン克服できぬ老骨に侘助活けて当座のしのぎ

 戦時中を思いやる歌、昔を振り返る歌も幾首か見られる。「芹摘む」恋のうたもある。

渡し箸して叱られし思ひ出の疎開の仲間いまも達者か

皿舐めて(たしな)められし児童ゐき戦時おぼろに半夏生咲く

食卓に七味唐辛子零れをり終戦の日の夕空晴れて

いつ絶えし恋の残り火倉庫には湿りしままの昭和の燐寸

 次は、老いの今を詠った歌から。

白内障の度合深まりピンぼけの秋茜とぶ大和川沿ひ

曝涼に加へむ五輪五体てふ代物ちかごろとんと走らぬ

老軀をよく老驅と書けり間違ひてなぜか華やぐ友への書翰

 著者の「愛車はスバル」である。吉田兼好を引用した歌もある。歌集の中からぜひ見つけてほしい。

   小角隆男(こすみたかお)歌集『吉祥草伝説』(砂子屋書房)

2015年12月1日

韻律を生む言葉と歌の統一性

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな

額田王

 万葉集の中でもよく知られた有名な歌。この歌のどこがすぐれているのだろうか。

 四句までが船出を待つ状況の説明で、結句に思いが述べられている。斉明天皇にかわっての代作とも言われるが、四句までの説明的な語りからすると、兵士たちに向けて歌われたという感じがしない。

 では、「今は漕ぎいでな」をどう読むか。意気揚々と大声で読むか。心細げに小さな声で読むか。淡々と運命を悟ったように読むか。「今は漕ぎだそう」という結句の心境は、いろいろに斟酌できよう。その意味では、詠み手に同化して読むには読みづらい歌と言える。

 「船出しようと待っていると月が出て潮も望みどおりになった」という四句までの語りを受けて、詠み手の心情はどうであれ、行動への意志が詠いあげられている、そんな歌として読むしかないのだと思う。

 この歌を支えているのは、やはり格調のある詠いぶりかもしれない。「熟田津」という場所が状況に臨場感をもたらしていること。三句と四句が、「月(潮)待てば」「(月も)潮もかなひぬ」と、切り詰められた対句的表現をとっていること。そして、少したどたどしいものの、弛みのない声調がいいのだろう。それらが、内容と相俟って場の清澄な緊張感を醸し出しているように思う。

 それはさておいて。次は、野口あや子の歌。

ひとごとめいてみずからのこと語るとき(かげ)るであろう顎のかたちだ

 こうした若い歌人の歌をいくつか挙げながら、阿木津英が次のように言う。

「期待すべき若い世代の歌が〈歌〉でなくなってきている。散文の切れっ端に限りなく接近し、一首が部分化断片化していっている。」

 歌を散文として読んでも歌の韻律が立ち上がってくる、それが理想だと思う。短歌の形式に頼るのでなく、短歌の形式を実あるものとする言葉の追求が必要だろう。そのうえで詠み手の思いや息づかいが深くトータルなものとして伝わってくるとすばらしい。安易に言葉に頼って詩的雰囲気を醸し出そうとするのは、本末転倒と言えるかもしれない。――韻律を生む言葉の連なりとその統一性――ともかくも短歌を作ろうとする者にとって、誰もが心して目指すべき方向ではないかと思うのである。

 若い歌人に対する阿木津英の言葉から、飛躍してそんなことを思った。

2015年5月1日

南鏡子歌集『山雨』 紹介

 歌集中のいくつかの歌を紹介したい。

 傾倒されている内田百閒をはじめ、俳句や漢籍、広く文芸・絵画・星座などへの深い教養に裏打ちされた歌が並ぶ。また、多くの草花や小動物が作者の思いを担って登場する。

 「リアリズムのほかないではないか」と詠う作者。そのゆるぎない言葉づかいと深い思いを、一首ごとに心して受けとめてゆきたい歌集である。

黝ぐろと流れる川の夜の橋なかほど過ぎて音の立ちくる

青しづく()りつつ挿せり一茎の一期一会のけさのあぢさゐ

雪のふるよるは雪ふる気配してけはひの中にはろばろと居つ

小止みして西日射すときあらかしの木は照りあをき光の木なり

()ね際のこころ凭りゆく八月の静かな夜を憩ひゐる樹へ

 作者の夫君は日本画家の南義信氏である。ご家族を詠まれた歌の中から、夫君とのことが詠まれた歌を挙げたい。心に沁みるお二人の人生の歩みである。

榎茸採りたくて来つ冬の野にわれは描かぬを画かきに従きて

ときをりはこゑに呼びつつわれらのみ たひらに寒くあかるき冬野

足の踏み場もなきこの画室水替へて鵯上戸隅に挿しおく

画くことに疲れしかすでに日の翳る窓に凭れて何か読みをり

夜半起きて咳き込むきみへ粥を炊く遠雷(とほいかづち)のまたひびきをり

火を使ふわれはじつとく、かんざんは食はれる前の目刺描きをり

※「じっとく、かんざん」に傍点あり。

 作者・南さんは、繊細で豪胆、エネルギッシュな人である。お茶目でもある、そんなお人柄がうかがえる歌を。

ひとり居の〈ドラゴン・クエスト〉わるものにだんだん本気になりてたたかふ

ものしづかに草をうごかす初夏の雨 ふともキョウコグサになりたり

だれかれが待ちくるるゆゑ精を出す大鍋ずつしりわたしのおから

※「おから」に傍点あり。

白雲に悟空みたいにとびのつた どこへ行かうか秋晴れつづく

 最後にもう一首、これまでの人生を思い返す歌。

本当にあつたのだらうか二人子を左右に抱きあげキリンをみた日

   ※ 南鏡子歌集『山雨』(ながらみ書房)

2014年5月1日

短歌との思想的対峙

 「僕たちはきちんと戦争賛美の歌を詠めるだろうか?」という挑発的な書き出しで、吉田隼人が伊藤左千夫について文章を書いている。(角川学芸出版「短歌」2013年10月号。「若手歌人による近代短歌研究(19)」)「いかにして戦争を賛美するか」という観点から、伊藤左千夫の戦争に関わる歌をとりあげ、歌のもつ「演劇性」と「音楽性」を指摘している。見てもいない戦地のことも堂々と詠む左千夫、そこでは、対象を問わず自らの言葉の枠組みの中でその役柄に没入して詠い上げてゆく、それが「演劇性」。その際、リフレインや古語特有の響きを用いることによって、意味を度外視させるほどの肉体的快感をもたらす、その効果を「音楽性」として、「叫び」至上主義の左千夫の作歌理念へと話をつないでいる。文章は、伊藤左千夫の歌の特質をうかびあがらせながら、あきらかに否定的気分を漂わせている。「若手歌人」としては「アララギ」を創刊した伊藤左千夫について、あからさまには批判を差し控えるという配慮がされているのかも知れない。

 ところで、文章の結びは次のようになっている。

 ――(僕は)いくら重大な意味や立派な思想が込められていようと、肉体をして感ぜしめる「叫び」のない歌を信じない。逆に官能的な「叫び」を含む戦争賛美の歌は、凡庸な生活詠の百首、思想詠の千首にもまさると信ずるものである。

 この結びは、伊藤左千夫に敬意を表するための譲歩した表現とは受け取れない。前半の文には異論はない。けれど最後の一文には、歌を官能的な「叫び」に集約してしまうところで共感できない。なげやりな一文なのかも知れない。しかし、官能的な「叫び」であれば、何を叫ぼうがいいということにはならないだろう。叫ばれているものが、差別や戦争を肯定し増長・推進しようという思想に裏打ちされている歌を、優れた歌だとは私は思わない。「凡庸な生活詠・思想詠」を疎む気持ちから、なげやりに戦争賛美を肯定してしまうのはまずいと思う。筆者が本気で戦争賛美の歌を詠みたいというなら別の話である。

 私たちが歌を読むとき、言葉の響きがいい、韻律がいい、比喩が的確だ、とらえ方が絶妙だ、などと評する。もちろん、表現された内容をふまえてのことである。比喩がいいからすばらしい歌だということにはならない。歌はトータルとして表現されたものを私たちは受け止める。その意味で付け加えるならば、(吉田も述べているように)政治的にも文化的にも軍国主義へと突き進もうとしている情勢のもとで、歌のもつ思想や世界観をも見極めて、歌に向き合わねばならないと思う。その際、読者は自らの世界観をきちんと対置しなければならないのではないだろうか。

2013年10月30日

坂楓歌集『ぽぷら』のこと

 坂楓さんから歌集『ぽぷら』をいただきました。坂楓(さか・かえで)さんは塔短歌会の方です。

 坂さんの歌と最初に出合ったのは、『塔』2012年6月号に載せられた次の歌でした。

河原町四条に青き空はあり上がりて北大路さんさんと雪

 ああ、この人は京都の街が根っから好きなんだと思いました。四条では青い空が広がっていたのに北大路まで来ると雪、この日の天候もさることながら、京都の街をゆく詠み手の愛着のようなものを感じたのでした。そして、「さんさん」という語には、明るいかがやきと同時に透き徹ったようなさみしさも潜められています。そこから読み返せば、青い空も雪も対照的ではあるものの、詠み手にとって同じ心持ちでとらえられているのではないでしょうか。風景へのなつかしさを感じさせられる歌でした。

 歌集には、「夫」の登場する歌が数多くあります。それらから、お二人のかけがえのない関わり合いがじんわりと伝わってきます。あわせて、詠み手・坂さんのお人柄もうかがい知ることができます。

春らんの開きし朝は嬉しくて春よ春がきたよと夫呼びてみる

残照の赤きほてりを残しゐるトマト二つ三つ病む夫に穫る

「山を歩きそのまま死ねば本望」とまことにつれない男だつたよ

白内障手術後の手をひいた秋あなたの分まで見たながい秋

 春らんの開花に子どものように心躍らせる詠み手、そのよろこびを共有しようとして夫を呼んでいます。また、夫のためにトマトを穫るのですが、トマトそのものに残照のほてりを感じて慈しんでいます。「つれない男だつたよ」と言いながら、その言葉を引用することで、山歩きへの夫の思い入れをなつかしく思い出してもいるのでしょう。そして、手術後の夫との闘病の日々、その「ながい秋」をふたり分見たのだと言います。一つひとつのものごとを大事に思う詠み手の気持ちが、そのまま「夫」への思いに重ね合わされているように思うのです。

 『ぽぷら』の初版手作り本の「あとがき」に、こんな一文があります。「まとめてゆくということは、その当時が浮かんできて、私一人の楽しい、又時に悲しい貴重な時間でもありました。」坂さんがいかに誠実に歌を詠んでこられたかがわかります。そして、いかに懸命に日々を送ってこられたかも想像させられる一文でした。

 坂さんは、月々いくつもの歌会に出席されているようです。そして、他の人の歌でも自作のものでも、その内実と表現に懸命にこだわり続けているようにお見受けします。そんな坂さんの姿勢が端的に表現された歌を歌集の中に見つけました。

田を畑を埋めて白き雪の面にわが持つ清き言葉を探す

 歌集『ぽぷら』は、横長の和紙を和綴じにした冊子でした。まるで、日々のくらしとその中から生まれた歌をひとつひとつ積み重ねてきたかのような、そんな体裁の歌集です。

 坂さんのような姿勢で短歌を作り続けられればいいな、と思わずにはいられません。

   ※ 坂楓歌集『ぽぷら』(青磁社)

     (真中朋久さんの、作者に寄り添った丁寧で優しい跋文がつけられています。)

2013年4月5日

「とふ」「とう」について

 短歌雑誌を読んでいて、次のようにノートに書き付けたことがあります。

  和歌に見る「とふ」といふ語は和歌山の「ちゅう」と同意義 ガム噛むやうな

 「とふ」というのは、「――といふ」のつづまったものです。和歌の中でもいくつか使用例があるようです。また、「てふ」というのもこれと同じです。有名な持統天皇の歌に、

春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山

というのがあります。これは『万葉集』にあるものですが、これが『新古今和歌集』あるいは『小倉百人一首』では、

春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

となっておさめられています。後世の人にとって、「衣ほしたり」はあまりにも直接的で、音の響きも強すぎたのかも知れません。実景と少し距離をとって蒙昧感を出すために、「衣ほすてふ」と手直しをしたのではないかと思われます。「衣ほすといふ」としてもよかったのですが、それでは逆に伝聞の感じが強く出過ぎてしまい、衣をほすということが単なる情報としての印象を与えてしまいかねません。その中間ぐらい、どっちつかずの感じを出すために、たぶん当時の口語調であったろう「てふ」が用いられたのだろうと考えられます。

 和歌山弁に「ちゅう」という表現があります。「酒ちゅうもんは(酒というものは)」などと使いました。「てふ」は「ちょう」と発音されたかもしれません。和歌山弁とは音が違いますが同じような訛り方でしょう。私は、現代の短歌に用いられる「とふ」に訛った口語の感じをどうしても受けてしまいます。和歌山弁の「ちゅう」だ、などと思ってしまいます。

 まして、「とう」と現代仮名遣いで表記されると、こんな日本語はないだろう、などと思うのです。

 (ちなみに、「出づ(いづ)」を現代仮名遣いで表記すると「出ず(いず)」となりますが、「いず」という日本語はなく、現代仮名遣いを優先させるのであれば、やはり「出る(でる)」を用いるべきだと思います。)

 「とふ」とせねば字余りになってしまう場合も、「といふ」として差し障りないのではないかと思います。

 五音、七音の音数リズムが確立してきたころも、母音は特別扱いされていたようです。『小倉百人一首』の歌を挙げてみます。

契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり

長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

 「契りおきし(ちぎりおきし)」「物をこそ思へ(ものをこそおもへ)」が字余りになっています。ただ、その句の中にどちらも「お」という母音が含まれています。このような場合、字余りとしては意識されなかったようなのです。母音は、音数の中におさまれば一音として扱われますが、一音字余りの句の中では一音としては受け止めずに詠われたもののようです。

 現代の短歌においては、字余りの歌も普通に受け止められています。その中で「とふ」を用いる場合、充分に意図的であるべきだと思います。

2012年7月13日

短歌の鑑賞ということ

 歌を享受する際、その歌がうたわれた場や背景となる事情などがわかっていれば、比較的すんなりと受け止めて味わうことができるかも知れません。けれど、現在、短歌はほとんど活字になったものを読みますし、その詠み手のことをよく知っているということも稀でしょう。さらには、現代の生活感覚はどんどん変化しています。文化状況も雑多な様相を呈しています。一つの歌を共有する上での地盤が危ういものになっているようにも思います。

 私が短歌を鑑賞するときは、活字となった歌を、その言葉のもたらす形象をもとに味わうというやり方をとるしか手がありません。有名な方の歌であれば、おぼろげにも作者の輪郭を思い浮かべながら味わうことが可能です。しかし、それも私が持っている知識の範囲でのことでしかないでしょう。そして、言葉をもとに、という点でも、私の限られた言語能力(?)を精一杯に使ってという限定つきのものとなります。したがって、私の短歌鑑賞は、そういう意味では恣意的なものです。ご容赦願わねばなりません。

 けれど、一つの歌と出会うという有り様は、そんなものだろうと思っています。言葉を媒介にしながら、その時の自分の状況の中にあって、歌に共感したり歌を異化して見たりする、そして、歌の言葉が自分の中に深く入り込んでくる、それが出会いというものだろうと思います。歌の鑑賞は日付のあるものだと言えるでしょうか。

 ところで、歌には、作者のことを知らなくても心に響いてくる歌があります。また、作者のちょっとした情報をもとにして読むと一層沁みてくる歌もあります。さらには、作者の状況を踏まえて読まなければ味わえない歌もあるようです。歌はもともと、心のつぶやきや叫びだと考えれば、作者は様々な観点からその折々の歌を詠むのだろうと思われます。ただ、現代の不特定多数の読者に享受されるためには、歌は一つの意味を持つ確固たるイメージを喚起するものでなければならないのは、どの場合も同じことのように思います。

2012年5月7日