雑記

目次

 思うことなどを書きます。

渡岸寺観音堂(向源寺)を訪ねて

 渡岸寺(どうがんじ)は、十数年前に一度訪ねたことがある。雪のために遅れている電車を長浜駅で一時間余も待って、高月に着いたのは昼すぎだった。膝まで雪に埋もれさせながら歩いて行ったのを思い出す。「なぜか渡岸寺は雪というイメージと結びついて」いるという永田さんの記憶そのままである。

そう言えばいつか湖北を歩きたり雪の渡岸寺おぼえているか

永田和宏

 かつて共有した時間を懐古するこの歌を支えているのは、当然ながら渡岸寺である。琵琶湖北辺、冬は雪に閉ざされる地に、その土地の人々の信仰を集めてきたであろう渡岸寺がある。「雪の渡岸寺」――渡岸寺を知る者にとってはそれだけで一つのロマンである。

 四月二十一日、渡岸寺再訪。晴れてあたたかい日であった。高月駅で電車を降りた客は一人。駅舎を出ても人影はない。駅前には駐車場が作られ、道路はきれいに整備されていた。「国宝十一面観音像」の矢印に従って歩き出す。町なかにも人影はない。農家風の家の庭に、柿の木が若葉を芽吹かせている。その下には牡丹が花をつけていた。静かな町である。道は観光客向けにおしゃれに舗装され、道案内の鉄の標識板がはめ込まれてもいた。高時川から引かれているのだろうか、水路が流れ、その傍らに石柱の道標が建てられている。「左 観音堂 右 高月駅へ七丁」左を向くとすぐそこに渡岸寺の山門があった。

 十一面観音菩薩像は、以前は薄暗い本堂で拝観した。今は本堂横の収蔵庫に安置されている。この体験も永田さんと同じ。永田さんはこの措置を、「残念という思いを禁じえない」としているが、そうとも言えない。密教ふうな宗教的雰囲気に信仰の有りようを味わおうとする仕方もあるが、一方、仏像を芸術的な彫像として鑑賞する仕方もあろうと思う。収蔵庫に収められて、適切な照明のもと、前からも後ろからも菩薩像を鑑賞できるようになったのである。

 檜一木造り、像高百九十五センチ。瞑目するしめやかな顔。右手を膝まで伸ばし左手には水瓶(すいびょう)を持つ。水瓶に添えられた指の繊細なこと。後ろにまわると、腰をくっとわずかに曲げていることがわかる。その腰のくびれはなよやかで、女体を見る思いがする。

 僧泰澄の作と伝えられているが、作者不詳。仏師は、一本の丸太の中に一つの像を思い浮かべ、それを具現してゆく。その信仰に支えられた執心と技術を思う。仏像であるからには、それまでの伝統的様式に則りながら、その上で自らの思い入れをも顕現せしめんとして彫り上げていったに違いない。仏の面立ち、唇のかたち、腕や指の曲線、衣の襞、体躯のひねり、細部にまで仏師独自の思いがこめられているのだろう。美しい観音像である。

 戦国時代の戦火のもと、観音像を土に埋めて守ったという塚が境内に残されている。長く人々の信仰の拠り所であった観音像も、今は半ば観光の対象となっている。しかも、多くの観光客を呼び込むまでには至っていない。そうした中、かつての歴史を大事にし、併せて広く来訪者を期待しているらしい、その町の施策を貴重なことだと思った。

 水路に沿った舗装路を帰ってゆく。この川に梅花藻は咲かないのかなあ、などと思いながら、高月図書館(井上靖記念室)へ向かう。井上靖の小説『星と祭』復刊のプロジェクトが組まれているという。

 駅前にある「十割蕎麦」の店で蕎麦を食べた。その味も含め、「晩春の渡岸寺」は私のなつかしい記憶のひとこまとなった。

あたらしき石のしるべに誘はれ渡岸寺(どうがんじ)へと歩む晩春

   (「塔」2020年8月号)

2021年4月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第二七段

貫之・躬恒の勝劣

 『無名抄』には聞き書きの段が多いのだが、第二七段も「俊恵(しゆんゑ)法師語りていはく」と始まり、俊恵(しゆんえ)の語りをそのまま引用している段である。

 長明は、俊恵(しゆんえ)を和歌の師としていた。俊恵は、京都白川に僧坊をつくって歌林苑(かりんえん)と名づけ、歌会や歌合を催して多くの歌人を集め、歌壇の一大勢力をなした。俊恵の父は、『金葉和歌集』を撰した源俊頼(としより)。藤原基俊(もととし)と共に院政期の歌壇の指導的位置にあった人である。

 第二七段は、藤原実行(さねゆき)と藤原俊忠(としただ)(どちらも平安後期の歌人)が、紀貫之(きのつらゆき)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の、どちらが勝れているかを議論したのが発端である。議論の決着はつかず、俊忠(としただ)は白河院に判断を仰ぐが、白河院は「俊頼(としより)などに聞け」と(かわ)す。そこで、参内した俊頼に事情を告げて意見を求めたところ、俊頼は、「躬恒(みつね)をば、な(あなづ)らせ給ひそ」(躬恒を軽く見てはなりません)と答える。貫之派(?)であった俊忠(としただ)は「では、貫之が劣っているとお考えか」と迫るのであるが、俊頼は、「躬恒をば(あなづ)らせ給ふまじきぞ」と繰り返すばかりだったというのである。

 「まことに、躬(み)恒(つね)が詠みくち、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」と、俊頼の意を汲んだ形で感想を述べて、俊恵(しゆんゑ)はこの話を語り納めている。

 紀貫之(きのつらゆき)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)はともに『古今和歌集』の撰者である。『古今集』には、紀貫之一〇二首、凡河内躬恒は六〇首、入集している。

 現代において例えば、石川啄木と与謝野晶子のどちらが勝れているか、などと議論になることはない。もちろん、先人の歌から学ぶ、教養として知る、短歌の歩みを考える、等々はあることであるが、優劣をつけようとは考えないはずである。その点、平安後期の歌人たちは、『古今集』などの古歌に学びながら、自分の規範とすべき和歌というものをそんな形で探っていたのである。古歌の評価と今後のあるべき和歌の姿は一直線上にあったとも言えようか。

 俊頼の含みを持たせた受け答えは、当時の歌壇第一人者としての風格を感じさせるものである。

躬恒(みつね)をば、な(あなづ)らせ給ひそ

『古今集』第一の歌人として紀貫之があることは言うまでもない。それを承知の上で、躬恒(みつね)のすぐれていることを示唆してみせたのである。

 ところで、貫之と躬恒はどう違うのか。教科書などに採られる有名なものとして、次のような歌がある。

袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ

紀貫之

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

凡河内躬恒

 『古今集』の頃の歌は、おおむね花鳥風月、雪月花、恋や旅などの風雅が、春夏秋冬の季節の中で詠われるのが普通である。現在においては、歌に詠まれた事柄や事情・状況に、より多く注目されがちである。そんな現在からすれば、当時の歌は、題材としてはどれも大差がないと言えようか。つまりは、問題とされるのは歌のしらべ、詠みぶりなのである。

  1. 桜花散りぬる風の名残には水なき空に波ぞ立ちける

    紀貫之

    (桜の花が散る、その風の余波で、水のない空に波が立っていることだよ。)

  2. 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる

    凡河内躬恒

    (春の夜の闇は奇妙なものだ。梅の花の、色は見えないものの、その香は隠れようものか、隠れはしない。)

 この二首を比べてみよう。

 先に挙げた二首も含めて、歌が知的な操作・機知によって風雅を醸し出しているところはみな同じである。どううまく言いなしてやろうかと歌人たちは腐心したに違いない。(1)は、桜花の散る様を波に見立てたもの。今なら「水なき空」とまで言うのはあざといと評されるかも知れないが、水がないのに波が立つというところが、新鮮であったはずである。(2)の歌も、闇の中から梅の香がすると言えばそれまでだが、それを知的に把握して見せるのである。

 (2)の歌の詠いぶりだが、上の句で「春の夜の闇は不可思議なものだなあ」と詠う。「あやなし」と詠んでおいて、そのわけを下の句で明かすという、いわばもったい付けた言い回しなのである。しかも、香を漂わせる闇を言うために、結句で反語まで用いている。(1)では、主題の桜花が提示され、波が立つという比喩まで一直線に詠む明解さがある。その詠みぶりの違いは瞭然と言えよう。さらに、(2)の歌からは、春の夜の闇を見ながら、(色は見えないが香は隠れようがないのだなあ、これが春の夜の闇の魅力だろうよ)などと思いやっている詠み手の姿を思ってしまうのである。それに対して、(1)は、見上げている詠み手がいるのは当然だが、むしろ桜の散る空の有り様を美的に造形していると言えようか。貫之が対象をそれとして美的にとらえようとするのに対し、躬恒は、そこに自身の思考を絡ませてゆくようなところがある。言い換えれば、知的な把握と表現の背後に、詠み手としての情が動いていると言えそうなのである。

 とは言え、紀貫之も凡河内躬恒も同じ時代に生きた歌人である。それぞれに個性を持ちながら、また互いに互いの影響も受けていたはずである。図式的に比べることは無理な話で、それぞれの歌を実際に味わうほかないことだろう。

 鴨長明もまた、俊恵(しゆんゑ)の言葉をきっかけにして、躬恒の「詠みくち」(詠みぶり)、思い入れの深さの有りようを見直したのではないだろうか。そうして自らの詠む歌のことを考えていたに違いない。

〈参考〉平安後期の主要な歌人

  • 〈六条家歌系〉 藤原顕輔(あきすけ)――清輔――
  • 御子左家(みこひだりけ)歌系〉 藤原俊成(しゆんぜい)――定家(ていか)――為家
  • 〈藤原北家流〉 藤原基俊(もととし)
  • 〈長明の師系〉 源俊頼(としより)――俊恵(しゆんえ)――(弟子長明)

   (「短歌堺」第73号 2021.04)

2021年4月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第二段・第三二段

歌の中で言葉は生きる

 次は、『無名抄』第二段の語り出しの一文である。

 歌はただ同じ言葉なれど、続けがら、言ひがらにて、よくも()しくも聞こゆるなり。

 同じ言葉であっても、歌の中での使われ方によって良くも悪くもなる、というのである。そして、次の三首が例として示されている。

  1. 夕されば佐保の河原の川霧に友まどはせる千鳥鳴くなり

    紀友則(きのとものり)

    拾遺集・冬

  2. 恋しきにわびて(たましひ)まどひなば(むな)しきからの名にや残らむ

    よみ人知らず

    古今集・恋二

  3. 人を思ふ心はわれにあらねばや身のまどふだに知られざるらむ

    よみ人知らず

    古今集・恋一

 同じように「まどふ」という語が用いられているのだが、(1)は素晴らしいが、(2)や(3)は大仰に聞こえて拙いと筆者は言う。(2)は、恋しさのあまり魂が抜け出たなら、身は抜け殻となって噂にもなろうか、の意。恋の身のつらさを歌ったものである。(3)は少し意味がとりにくいが、腑抜けのような我が身を思う歌である。対して、(1)は、佐保川の夕霧にまぎれて鳴く、友とはぐれた千鳥の声を歌う。夕刻の具体の景がしんみりとした情感を醸し出している歌である。

 ここでの歌の評価には、想念のみの叙述よりは具体的な事象を詠み込んだ歌の方をよしとする、筆者長明の和歌観(?)が反映しているかも知れない。

 見ておくべきは、「まどふ」という抽象語に対する筆者の繊細なチェックの姿勢。さらには、『古今集』に採られている歌にも拙いものはあるとする、権威を絶対化しない柔軟な姿勢、であろうと思う。

 挙げられたもう一つの例は、次のひと組の歌である。

  1. 春霞立てるやいづこみ吉野の吉野の山に雪は降りつつ

    よみ人知らず

    古今集・春上

  2. 神垣に立てるや菊の枝たわに()手向(たむ)けたる花の白木綿(しらゆふ)

    よみ人知らず

    出典未詳

 同じく「立てるや」と詠みながら、(5)の歌は下手くそだと述べられている。私が思うには、「立てるや」という語も問題であるにせよ、そのあとの菊を白木綿に結びつけた発想がわざとらしいのではないかと、そんな気がしている。(どうでしょうか?)ともあれ、心惹かれた句や言い回しがあったとしても、それを安易に用いてカッコつけるべきではないということか。

 途中にもう一例、次の歌が挙げられている。

  1. 播磨(はりま)なる飾磨(しかま)に染むるあながちに人を恋しと思ふころかな

    曾禰好忠(そねのよしただ)

    詞花集・恋上

 「あながちに」という語は歌には詠まないものだが、この歌の場合「飾磨に染むる」を受けて優美な気分を醸している、と筆者は言う。飾磨産の染め物の(かち)色(濃紺色)が序詞となって、ひたすら一途に、という「あながちに」が生きたと言うのである。

 そのことの判断はおくとして、「あながちに」は歌語としては不適だと筆者が考えているところが面白い。現在は何でもあり、である。口語、方言、会話文、省略語、何だって歌に詠み込んでいい。そうではあるが、筆者の言う「続けがら、言ひがら」、歌一首の中でのその語の語感や表現の効果を、十分に吟味すべきかと思う。

 『無名抄』第三二段に、藤原基俊(もととし)が源俊頼(としより)の歌をけなす話がある。俊頼、基俊、ともに平安後期の歌人で、当時の歌のライバル同士である。

  1. 明けぬともなほ秋風のおとづれて野辺のけしきよ(おも)がはりすな

 歌合の場に出されたこの俊頼の歌を、基俊は、「いかにも歌は腰の句の末にて文字据ゑつるに、はかばかしきことなし。(ささ)へていみじう聞きにくきものなり」と非難した。第三句で「て」とつなぐのは大した歌とは言えないとこきおろしたのである。これに対し、列席していた琳賢という人が「同じような証歌がある」と言って、次の歌(8)の上の句、「桜散る木の下風は寒からで」を朗々と吟じた。「で」は「ずて」のつづまったもので、三句目を「て」でつないだ歌の例証歌に充分なるのである。

  1. 桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける

    紀貫之

    拾遺集・春

 同じような証歌ならどうせつまらぬ歌だろうとうそぶいていた基俊だったが、その上の句を聞くや、真っ青になってうつむいてしまった。有名な紀貫之の歌だったからである。

 第三句末の「て」は駄目だ、という基俊の論は、同じ用法を用いた紀貫之の歌を証歌として出され、もろくも崩れてしまった。

 そのもろさの原因は、歌を批評する際に、その歌そのものからではなく、持論をもって評したところから来ている。現在でも、擬人法はよくない、動詞は四つまで、同じ助詞を重ねると単調、四・四音の句は避けたい等々、それまでに得た知識をもとに歌を評することがあろうかと思う。そうしたいわば固定観念をもって歌に向かうのではなく、あくまでもその歌の中でのその言葉の働きを見なければならない。一首全体を見ずに、一点でのみ持論を言うのは本末転倒である。

 ところで、三二段の話は、自分勝手な評をする基俊を、紀貫之の歌を証歌にしてへこませたのだが、そこでは、(8)の歌を皆が知っていて、しかも名歌だと認めていることが前提になっている。現在、有名な歌人の歌だからといって、歌もいい歌だと無条件に考える人はいないはずである。著名な歌人が同じような言葉、技法を用いているからといって、その歌の評価にはもちろんつながらない。その意味では、(7)の歌について、「て」が不自然なものでなく、歌の中で生きていることを主張するというのが反論の本筋なのである。

 鴨長明は、はじめに述べたように、古歌の伝統を重んじながらも、古歌も一首の歌として読む、いわば相対化の視点を持っている。第二段では、古歌にも善し悪しはあるとして、次のように述べている。

 されば、「古歌に確かにしかしかあり」など証を出だすことは、やうによるべし。その歌にとりて善悪あるべきゆゑなり。

 先入観にとらわれず、言葉をその歌の中で生きているものとして捉えたいと思う。

   (「短歌堺」第72号 2020.12)

2021年4月1日

鴨長明『無名抄』との対話 第一段

題詠――歌のテーマということ

 鴨長明(かものちようめい)の『無名抄(むみようしよう)』を読んで、思ったことを自由気ままに述べてみたい。

 鴨長明は、随筆『方丈記』でよく知られているが、鎌倉時代前期の著名な歌人の一人でもあった。『千載集』に一首、『新古今集』に十首、ほかを含め二十五首が勅撰集に入集している。『無名抄』は、その晩年に書かれた随筆風な歌論書である。逸話なども含め、八十余段の文章から成っている。

 当時は、後鳥羽上皇やら和歌の家系の公卿やらを中心に歌会・歌合が催されており、歌合において勝者となることは、歌人としての名声を得ることにつながり、ひいては出世の足がかりにもなっていたようである。そして歌人としての究極の名誉は勅撰集に入集することであった。平忠度(たいらのただのり)が都落ちに際して、藤原俊成(ふじわらのしゆんぜい)に『千載集』入集を懇願しに出向いた逸話にもあるように、歌人たちの歌への思い入れには並々ならぬものがあった。

〈題の心〉

 第一段は「題の心」、題詠についての心得が述べられている。歌合では、あらかじめ歌の題が出されて左右に分かれ歌の優劣が競われる。歌の大勢は題詠なのである。書き出しはこうである。

 歌は題の心をよく心得べきなり。

 出された題の意味、趣旨をよく理解せよ、ということである。現在でも題詠が行われているが、現在の題詠の題は多く単語で与えられ、その題は作歌のひとつの契機でしかない。思うところを自由に詠めばいいのであるが、この当時の題詠は場面・状況をさらに限定したものであった。「暁天落花」「雲間郭公(ほととぎす)」「海上明月」などの例が挙げられている。他に、「海路を隔つる恋」「夏を(ちぎ)る恋」「水鳥近く()る」「秋の暮れの心」といった風である。

 与えられた題の、どこに情趣を感じ取るべきなのか、その主眼とすべきところをきちんとわきまえなければならないという訳である。それには、当時の一般的な美意識というものがある、また、権威ある出題者へ配慮も欠かせない。その上で状況設定や言い回し、詠みぶりで独自性を出さねばならないということになる。

 また、題の歌はかならず心ざしを深く詠むべし。

 次に述べられているのは、歌のもつ思い入れの深さである。恋なら愛情がほとばしるように、花を惜しむなら命と引き替えにするほどの思いで、と続く。歌合などで、同じ程度の歌ならば、題に対して思いがより深い方を勝ちとするのだ、と書き添えられている。題を踏まえた上で、歌に切実な思いが込められていることが重要だというのである。

 ただし、題をばかならずもてなすべきぞとて、古く詠まぬほどのことをば心すべし。

 最後はただし書きである。例がおもしろい。時鳥(ほととぎす)は尋ね歩いて聞くが、鶯は鳴く声を待つ。桜は見ようと尋ねるが柳は尋ねはしない。花は惜しむが紅葉は惜しまない。題を大事にすべきだが、古くからの和歌の先例をわきまえて注意すべきだと言うのである。当時の風雅・風流の伝統の枠を意識するところ、鴨長明の穏当なところであるかも知れない。古歌の伝統も踏まえながら、その上で新しい歌を創出しなければならない、と考えていたようなのである。

〈歌のテーマということ〉

 先に述べたように、現在の題詠は緩やかなものである。また、鎌倉時代のように、題をもとにその感覚や美的表現を追究するといった共通の基盤もない。だが、歌がテーマに沿って詠まれているという点では変わることがないだろう。

 今は、歌人が自ら題を出して歌を詠んでいるとも言えよう。その端的な例がいわゆる社会詠である。新型肺炎の感染拡大の騒ぎ、辺野古米軍基地建設問題、米国での白人警官による黒人男性暴行死事件、等々、身近なところから遠い外国の事象まで、私たちの意識にのぼるテーマは様々である。それらの中から関心のある一つのテーマを選び取り、歌に詠もうとする。その際、『無名抄』の論になぞらえれば次のようにも言えようか。つまり、そのテーマにおいて何に注目し、何を問題とするのか、ということ。そして、そのことへの思いの深さとして自分の心情をつかみ取ること。それらが歌を詠む前提として意識されなければならないということになろう。テーマを、単なる題材としてではなく、主題として突き詰めてとらえるのは並大抵のことではないと思われる。

 堅苦しいテーマを例に出してしまったけれど、誰もがテーマを意識して歌を作っているわけではない。綺麗だなあとか面白いなあとか、心にとまった物事を歌にするのがむしろ普通であろう。そしてその、例えば面白いなあと思うところで、無意識にテーマを見出だしていると言えるのだろう。歌を作ったのちに「ああ、こんなことを私は思っていたのだ」と気づかされる、それも作歌の楽しみだ――というのは河野裕子の言葉だったか? いつもテーマや主題を意識していたのでは歌は窮屈なものとなるだろう。歌は、ふと浮かんだ言葉や思いを掬い上げるようにして詠むというのがいいのだと思う。そこにおのづから自分なりのテーマが醸し出されてくる、そんな気がする。

話は一転二転するが、そうは言うものの、他人の歌を読むときや自分の歌を見直すときに、その歌が何を表現しているのかを考えることは、時に必要だと思う。例えば、介護の歌があったとして、その歌が表現しようとしているのは、介護の大変さなのか、自分のがんばりなのか、はたまた人間の哀れさなのか、歓びなのか、などとちょっと抽象化して考えてみる。自分の歌については、何を言おうとしたものか、そしてそれが表現できているのか、などと推敲してみる。歌のもつテーマや主題を考えるのは鑑賞の第一歩でもある。折々にそんな風に歌がもつ主題を意識するのは意義のあることに違いない。

 鎌倉時代の「題詠」から話は逸れてしまった。『無名抄』のこの段では、心ざしを深く詠むべしこれを心にとめておきたい。このことは現在に通じる作歌の基本だと思うのである。

   (「短歌堺」第71号 2020.08)

2021年4月1日

短歌との出会いとその後の読みと

あしひきの山の(しづく)(いも)待つとわれ立ちぬれぬ山の(しづく)

大津皇子(おおつのみこ)

『万葉集』巻二・一〇七

 高校生のころ、担任の杉山先生から齋藤茂吉『万葉秀歌』をいただいた。その中でこの歌に出会った。

 大津皇子が石川郎女(いらつめ)に贈った歌ということである。あなたを待っていて山の雫に濡れてしまったよ、というだけの単純な歌だが、その単純さが心に沁みた。「山の雫」という、山全体が雫しているかのような大きな把握の仕方。そして、その雫に濡れてしまうまでひたすら待っていた時間。同じ句が結句で繰り返されるとき、山の雫はまるで「妹」を想う純情の象徴かとも思われた。単純な表現にして、純粋なきらめきをもつ、雫のような情感に心打たれたのである。

 ずっと後になって気になり出したのは、この歌が相手に届けられたのだということ。その点から歌を読み返すと、濡れてしまったということが、自分の誠実さや愛情深さのアピールであって、結句のリフレーンも恨み言のようなニュアンスを帯びてくる。この歌が自分だけのつぶやきであってほしいな、と思ったことである。ただし今も、高校生のころの読みをよしとして捨てがたい。

 次の歌も結句にリフレーンが用いられている。

吾はもや安見兒(やすみこ)得たり皆人の得がてにすとふ安見兒得たり

藤原鎌足(かまたり)

『万葉集』巻二・九五

 安見兒というのは美しい采女(うねめ)であったらしい。その安見兒を藤原鎌足が(めと)った時の歌。誰もが手に入れられないような安見兒を娶ったぞ、と言いふらしているような歌である。妻を得た喜びを無邪気なまでに表現していて微笑ましい。

 だが、采女が天皇に仕える女性であることを考えると少し事情が変わる。天智天皇が、自分に仕える采女の一人を鎌足に与えたということらしい。女性が褒美の品として物のように扱われるのは現代の感覚には馴染まないのはもちろんだが、自分が天智天皇から特別扱いされていることを得意がっている歌として読めば、何とも面白くない歌に思えてくる。この歌とどう出会うべきだろうか。

 次の歌も高校生のころに出会ったときめきの歌である。恋へのあこがれを喩えたひんやりとした雪の感触に、さわやかな初々しさを感じたものである。

やはらかに(つも)れる雪に
()てる()(うづ)むるごとき
(こひ)してみたし

石川啄木『一握の砂』

 この歌の脚注(久保田正文による)には「……そういう熱っぽい恋をしてみたい、といった意味。だが、孤独感に襲われたときの思いである。」とある。この歌の一つ前には、「何がなしに/さびしくなれば出てあるく男となりて/三月(みつき)にもなれり」があって、つまり生活に倦んだ男のさびしいつぶやきなのだ、ということらしい。そうであったとしても、この歌が提示する、爽やかな恋のイメージは素敵だと今も思う。

 歌の解釈が、時に読む人によって様々に異なることがある、そんな話を小西美根子さんが「風の帆」第21号に書いておられる。一読者においても、いつ、どのような状況でその歌と出会うかで、その歌を受けとめるニュアンスが違ってくる。それを単に読みが浅いとして片付けるものでもないだろう。けれどもやはり、背景をも含め歌まるごとを受けとめようとする中で、その歌の読みが深まれば、おもしろいことだと言えようか。

   (「短歌堺」第70号 2020.04)

2021年4月1日

大地たかこ歌集『青き実のピラカンサ』より

 大地たかこさんの歌集『青き実のピラカンサ』からいくつかの歌を紹介したい。大地さんは「塔」所属の方である。

 巻頭に「丹波杜氏」という連が置かれている。ここには、「丹波」という土地への愛着、また「杜氏」という伝統的な人間の営みへの慈しみ、といった作者の基本的な関心の持ち様が示されていると言えようか。

杜氏(とじ)さんの入りし「力湯」けふもまた開いてをりぬビルのあはひに

丹波杜氏の跡継ぎなくて伊丹よりひとつ名酒の消えてしまへり

 時代の流れの中で伝統あるものが消えてゆく、一方、残ったものが新たな現代の風景と共存している、そのことへの哀惜・哀感が詠われている。この次の連にある次の歌も、時代の移りゆきに思いを馳せた歌であろう。

〈国鉄大津駅前なかむら書房〉とあり きのふ買ひ来し新書のカバーに

 国鉄時代のままの新書カバーが今も使われているのである。思えば、動きゆく時代の中で、旧来のものをひきずりながら、新たなものを創出してゆく、その反復連続の中を人は生きているのだろう。作者自身の生活もまた、そうしたものとして捉えられているのだろうと推測する。

親戚の手伝いかもしれないが、農業に携わる歌がある。山の芋の収穫、丹波黒豆の栽培・選別など。また夫や父母や義母・祖母のふるさとに関わる歌もある。そこには、身に沁み込んだ土着の感性があるように思われる。そして、その土地に根をおろした人々の生活も、作者のおのずからなる関心となっているようである。

切りし芋を植ゑゆく作業繰り返しほいと見上げぬ雲雀の声に

黒豆の選別しつつ聞いてゐる炊けばおなじぢやと義兄(あに)つぶやくを

黒豆を刈りたるあとの畝の間にイヌタデあまた風に揺れをり

向かひあふ庇と庇のつながりて傘さすひとのをらぬ村なり

午前九時やさいばあちやんやつてきた獅子唐辛子と間引き菜のせて

 歌の中に、固有名詞が多出することと併せて、次のような語に注目させられた。

   〔腰輿(およよ)・斎王代・日陰糸・夏越の祓・神楽太鼓・船渡御・涅槃図・迦陵頻伽
    ・須恵器・角大師(つのだいし)・須磨琴・七輪・もんぺ……等々〕

 特有の風物や事柄を言い表す言葉に造詣の深い作者であることがわかるのだが、こうした語を好んで歌に詠み込むところに、作者の興味関心がうかがえよう。作者が心寄せることの一つとして、やはり伝統的文化というものがある。その例として次の歌を挙げておきたい。

水無瀬駒の厚き駒尻みてをりぬ飴色となりし黄楊のこまじり

 Cであげたような語とともに、歌集では、沢山の固有名詞が登場する。伊丹・昆陽川などの地名のほか、「ヤマザキの三色パン」や〈つぶらなかぼす一〇〇%〉など多彩である。次は、駅名自体を詠み込んだ歌である。

西北(にしきた)と縮めて呼びあふ駅のあり正午の鐘の()しづかに降り来

 西宮北口に執着しながら、その正午のしんとした雰囲気を詠んでいる。歌に固有名詞が多く使われるのは、その固有のもの自体に詠み手がこだわっているのである。単なるパンではだめで「ヤマザキの三色パン」、ジュースではだめで〈つぶらなかぼす一〇〇%〉。作者が面白がっている面もあろうが、詠み手にとってはその具体のものでなけれなならないというこだわりなのである。個別の具体にこだわり、その具体を大切にする作者の姿勢がどの歌にも見て取れよう。

 日々の出来事や見聞が丁寧に印象深く語られている歌集である。帯文に、「日常のささやかな情景のなかに、過ぎ去った記憶のなかに掬いだす、あたたかな詩情――。」とある。まさにその通りである。時の流れと土地に根付く人々のくらし、とりわけ身近な人々との日々の生活、そういったものが優しくあたたかく捉えられている。

半桶(はんぎり)の飯に合はせ酢かけゆけば待ちゐし団扇三つがあふぐ

あら次はその手で来たね、卓の()に君は柚子茶をそつと置きたり

をさなごと山茶花つんでは冷凍す春のよき日にスカーフ染めむ

みづからの手にしぼりたる乳ならむ(いひ)のとなりに供へてありぬ

キヌさんは蓬のやうな香をはなち縁に座りて空を見てをり

 最後にもう一首、遠い時間を思いやる歌を挙げる。

敷石の雨のにほひのなかにゐてとほく子どものけんけんぱつぱ

   大地たかこ歌集『青き実のピラカンサ』(ながらみ書房 2017年5月)

2017年7月13日

てんとう虫のいる風景――わが散歩時の記録

ひとところ蛇崩道(じやくづれみち)に音のなき祭礼(さいれい)のごと菊の花さく

『星宿』(昭58)

 佐藤佐太郎の歌である。佐太郎は昭和四六年、六二歳の時に東京目黒の蛇崩の地に転居、七七歳で亡くなるまでの十数年を蛇崩で過ごす。そして、すでに体に不自由をきたしていたが、毎日蛇崩の遊歩道を散歩し、その景を材として沢山の歌を詠んでいる。

 佐太郎は、見て真実を詠む以外架空で歌を作らなかったという。直接自ら体感したものをもとに歌を詠む佐太郎にとって、散歩は歌作するうえでも欠かせないものであったろう。

 この歌の「音のなき祭礼のごと」という比喩は、菊の花の咲くしづけさとはなやぎを同時に捉えていて、巧みである。景を言葉に写す際、対象への思い入れの深さと的確な表現が求められるのだと痛感する。

 さて、次は私の散歩の話。佐太郎とは全く違って気楽なものだが、私も毎朝散歩をする。山科川の川土手や六地蔵・木幡(こはた)の町の路地裏を、缶コーヒーを片手にぶらぶら歩いてくる。今ではこの一帯はすべて私の庭のようなものだとも言える。

 定番コースの木幡の町角に、レモンの木を植えている家がある。大きな鉢を玄関先に据えているのである。実を幾つかつけているが、実が色づくのは年を越してからだろうか、今はまだ緑、葉の色に紛れている。ある朝のこと、その緑の葉に真っ赤なてんとう虫がとまっているのを発見した。二匹のてんとう虫が、少し距離をおいて、葉の上にちょこんと乗っている。何ともかわいらしい。誰かにそのことを話してみたい気持ちに駆られてしようがない。

 次の日、そこを通りかかるとやはり同じようにてんとう虫がいた。ああ、まだいた、とうれしくなった。そのまた次の日、やはりてんとう虫はそこに居た。不審に思って、近づいてよく見ると、てんとう虫は作り物だったのだ。騙された。と思うと同時に、その家のおかみさんのしゃれっ気と遊び心に楽しくなった。そこで、へたな短歌を一首書きとめて記念とする。

レモンの葉にてんとう虫の真つ赤なる今朝もゐたれど おもちやなりけり

2016年12月1日

河野美砂子歌集『ゼクエンツ』を読む

 12月20日、河野美砂子「短歌教室」のメンバー14名で、歌集『ゼクエンツ』の批評鑑賞会を行なった。歌集から各々三首を選び持ち寄って、都合38首について意見を述べ合った。その後、著者の河野美砂子さんに30分ばかり歌集についてのお話をしていただいた。

 鑑賞会であがった歌を中心に、歌集『ゼクエンツ』の中からいくつかの歌を紹介してゆきたい。

 総合誌等の歌集評にもあるように、ピアニストという職業に関わる歌と人の死に関わる歌が印象に残る。ピアノに向かう姿勢と死へと向かう時間がとらえられた歌として、私は次の3首を選んだ。

ひとくぎり練習(さらひ)終ふれば床の上に死体のポーズ(シヤバアサナ)あたたかき私のからだ

 練習に一段落をつけた時の脱力感と充足感を詠う歌。「死体のポーズ」は、懸命に生ききったのちに来るものが死であることを連想させ、そこまでのひたすらな活動が生きるということなのだと「あたたかき」からだが感じさせてくれる。「死ぬために生きてゐることすぐ忘れ練習不足を今日なげくなり」という歌と同根の感性かと思う。

シューベルトの絶望の果てにまだつづく同音連打、狂はずに打つ

同音連打をきっちり演奏しきった達成感を詠う歌。「絶望」はシューベルトのものなのだろうか。同音の続くことが絶望的なのか、そのあたりは無知であるが、ともかくも、絶望が延々と続くイメージがある。たとえ絶望が果てることがないとしても、絶望は絶望のままでその生を全うするのだ、といった悲壮な情熱を思った。詠み手のピアノ演奏にかける熱意に、そうしたものが重ねられているのかも知れない。

一段づつ時は過ぎゆく 木製の手すりを握り下りてくる父

 階段を下りる父に「時」の過ぎゆきを思念する歌。少し概念的な上句だが、階段のイメージと重なる「一段づつ」というとらえ方は独特である。時間は切れめなく過ぎてゆくのだが、ものごとの変化はある時に急激におこる。この歌では、その変化が下降方向に段階的に起きてゆく。身に不自由さを持つ父が、階段を下りるように時を経て、最後は死へと至るのだろうと静思している歌だと言えようか。

 次は、取り上げられた歌の中でピアノに関わる歌。

秋の雲を(かんむり)みたいに載せてゆく暗譜できるとじぶんで決めて

五線譜をひろぐ モーツァルトの書かざりしカデンツァはわが新しく書く

さきほどは不在のdolce再現部に見つけてブラームスと少し会話す

黒ぐろと光ぬめれる楽器なり鋼鉄を内にふくむピアノは

ふれがたく黒白(こくびやく)鍵盤(キイ)整列す美しい音の棺のやうに

 3首目では、音楽家と魂を響き合わせる素晴らしさ、4首目では詠み手が対峙するピアノの物理的な存在感が言われた。5首目は、これまでの音楽が潜められているものとしてピアノはあり、それに向かう敬虔な心境が詠われていると言えよう。

 次の2首は、「永遠の挽歌」「挽歌の中で一番のもの」と評された。母への挽歌である。

いつの野か春の緑に膝を寄せこれはヨモギとおしへてくれた

むらさきの湯の舟にわがひたりつつ花の舟おもふ焼かれたれども

のこる命二十日あまりの病床に母は言ひたりセックスといふ言葉

 前掲の「一段づつ時は過ぎゆく……」と同様、距離を置いたところから母をとらえた歌。大森静佳が「母親のなかに性に繋がる身体性をみる」として、「塔」10月号で取り上げていた歌である。

笛はかるく右手にかかげたましひの旅に出たまま帰りては来ず

 河合隼雄氏への挽歌。河合氏は「たましい」という語をよく使ったということだ。この歌では、河合氏はフルートを手にして明るく去っていったようで、澄んで淋しい。

ついらくの距離やはらかく抱きよせて雨ふれり地に人に時間に

まつすぐに地球の芯へおりてゆく垂直の舵、ひかりを曳いて

 この2首は、雨の歌である。ともに下降するイメージが優しく美しく描かれているのだが、そこに死へ向かう時間といったものも感じさせられる。あとに続く、友人の死を詠う「梨の実月」の節への序奏の感がある。

 景がくっきりと見えてくる歌の魅力的なことが言われた。そんな歌が各節のはじめなどにさりげなく置かれているのもいいなあと私は思う。

「また朝が来たのだ梅雨のつかのまのひかりに鳥のこゑ鮮らけし」

「しめりつつ落葉が匂ふずつしりと冷えゐる朝の自転車のあたり」

「雪晴れの朝のひろがり公園に遠くボールを蹴りあぐる音」などなど。

 鑑賞会であげられたのは次のような歌。

ぷつぷつと芽ぶく木の芽にかこまれて耳を澄ましてゐる池の水

水の膜つんつんつつき水鉢の夏の目高は音たてたがる

うすき陽がふちどつてゆくことごとく葉をうしなひし(うれ)の黒さを

堤防の道ながくくれてゆく空につながるごとく車はしらす

どのやうにもならぬあなたをまたおもふ 石蕗の黄が空気にしみる

植物に水をあたへてしばらくを耳すましをり濡れてゆく音

きざはし、と呼べば春めく階段に植木の鉢をかかへてのぼる

虚木綿(うつゆふ)のこもる雲より日はさせりさつき通つた道なりここは

 河野美砂子さんのお話は多岐にわたった。連作では、誰もが共感しうる、景を叙した歌や季節感のある歌から入るとそのあとの特異な歌も際立ってくる、等々のアドバイス。また、ご自身の歌集については、ⅠからⅣを楽章のように構成したとして、その配慮した点についてこまかく披露していただいた。

   河野美砂子歌集『ゼクエンツ』(砂子屋書房)

2015年12月25日

小角隆男歌集『吉祥草伝説』
――歌集中のいくつかの歌の紹介

 著者の第五歌集。歌集名は、役小角(えんのおづの)の生誕時に、吉事ある時にしか咲かないとされる吉祥草(きちじようそう)が咲き乱れたという、吉祥草寺にまつわる言い伝えに因む。

 収められた歌の三分の一ほどが体言止め、併せて三句切れの歌も多い。これは、漢語の使用とも相俟って、俳句的な感性からきているのではと思われた。次の歌などは上句がほとんど俳句の詠みぶりになっている。

夏富士や弾丸列車一文字母の生家は跡形もなし

 著者の、特に漢語の語彙の豊かさには圧倒される。次の「靉靆」の読みは「アイタイ」、曖昧でうす暗い様をいう語。気分や情感を漢語や名詞によって鷲掴みにする表現を、辞書を繰りつつも楽しみ味わってゆきたいものである。

積み上げし書籍寂寂ビルに似てこころの奥処靉靆モード

 次は、飄々とした暮らしぶりがうかがわれる歌。

狩衣(かりごろも)乱れがちなる有漏の身に棚牡丹(たなぼた)のごと今朝の碧落

空身(からみ)にて出かけるわれに門の辺の蟬声かしましほつといてんか

ルサンチマン克服できぬ老骨に侘助活けて当座のしのぎ

 戦時中を思いやる歌、昔を振り返る歌も幾首か見られる。「芹摘む」恋のうたもある。

渡し箸して叱られし思ひ出の疎開の仲間いまも達者か

皿舐めて(たしな)められし児童ゐき戦時おぼろに半夏生咲く

食卓に七味唐辛子零れをり終戦の日の夕空晴れて

いつ絶えし恋の残り火倉庫には湿りしままの昭和の燐寸

 次は、老いの今を詠った歌から。

白内障の度合深まりピンぼけの秋茜とぶ大和川沿ひ

曝涼に加へむ五輪五体てふ代物ちかごろとんと走らぬ

老軀をよく老驅と書けり間違ひてなぜか華やぐ友への書翰

 著者の「愛車はスバル」である。吉田兼好を引用した歌もある。歌集の中からぜひ見つけてほしい。

   小角隆男(こすみたかお)歌集『吉祥草伝説』(砂子屋書房)

2015年12月1日

韻律を生む言葉と歌の統一性

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな

額田王

 万葉集の中でもよく知られた有名な歌。この歌のどこがすぐれているのだろうか。

 四句までが船出を待つ状況の説明で、結句に思いが述べられている。斉明天皇にかわっての代作とも言われるが、四句までの説明的な語りからすると、兵士たちに向けて歌われたという感じがしない。

 では、「今は漕ぎいでな」をどう読むか。意気揚々と大声で読むか。心細げに小さな声で読むか。淡々と運命を悟ったように読むか。「今は漕ぎだそう」という結句の心境は、いろいろに斟酌できよう。その意味では、詠み手に同化して読むには読みづらい歌と言える。

 「船出しようと待っていると月が出て潮も望みどおりになった」という四句までの語りを受けて、詠み手の心情はどうであれ、行動への意志が詠いあげられている、そんな歌として読むしかないのだと思う。

 この歌を支えているのは、やはり格調のある詠いぶりかもしれない。「熟田津」という場所が状況に臨場感をもたらしていること。三句と四句が、「月(潮)待てば」「(月も)潮もかなひぬ」と、切り詰められた対句的表現をとっていること。そして、少したどたどしいものの、弛みのない声調がいいのだろう。それらが、内容と相俟って場の清澄な緊張感を醸し出しているように思う。

 それはさておいて。次は、野口あや子の歌。

ひとごとめいてみずからのこと語るとき(かげ)るであろう顎のかたちだ

 こうした若い歌人の歌をいくつか挙げながら、阿木津英が次のように言う。

「期待すべき若い世代の歌が〈歌〉でなくなってきている。散文の切れっ端に限りなく接近し、一首が部分化断片化していっている。」

 歌を散文として読んでも歌の韻律が立ち上がってくる、それが理想だと思う。短歌の形式に頼るのでなく、短歌の形式を実あるものとする言葉の追求が必要だろう。そのうえで詠み手の思いや息づかいが深くトータルなものとして伝わってくるとすばらしい。安易に言葉に頼って詩的雰囲気を醸し出そうとするのは、本末転倒と言えるかもしれない。――韻律を生む言葉の連なりとその統一性――ともかくも短歌を作ろうとする者にとって、誰もが心して目指すべき方向ではないかと思うのである。

 若い歌人に対する阿木津英の言葉から、飛躍してそんなことを思った。

2015年5月1日

南鏡子歌集『山雨』 紹介

 歌集中のいくつかの歌を紹介したい。

 傾倒されている内田百閒をはじめ、俳句や漢籍、広く文芸・絵画・星座などへの深い教養に裏打ちされた歌が並ぶ。また、多くの草花や小動物が作者の思いを担って登場する。

 「リアリズムのほかないではないか」と詠う作者。そのゆるぎない言葉づかいと深い思いを、一首ごとに心して受けとめてゆきたい歌集である。

黝ぐろと流れる川の夜の橋なかほど過ぎて音の立ちくる

青しづく()りつつ挿せり一茎の一期一会のけさのあぢさゐ

雪のふるよるは雪ふる気配してけはひの中にはろばろと居つ

小止みして西日射すときあらかしの木は照りあをき光の木なり

()ね際のこころ凭りゆく八月の静かな夜を憩ひゐる樹へ

 作者の夫君は日本画家の南義信氏である。ご家族を詠まれた歌の中から、夫君とのことが詠まれた歌を挙げたい。心に沁みるお二人の人生の歩みである。

榎茸採りたくて来つ冬の野にわれは描かぬを画かきに従きて

ときをりはこゑに呼びつつわれらのみ たひらに寒くあかるき冬野

足の踏み場もなきこの画室水替へて鵯上戸隅に挿しおく

画くことに疲れしかすでに日の翳る窓に凭れて何か読みをり

夜半起きて咳き込むきみへ粥を炊く遠雷(とほいかづち)のまたひびきをり

火を使ふわれはじつとく、かんざんは食はれる前の目刺描きをり

※「じっとく、かんざん」に傍点あり。

 作者・南さんは、繊細で豪胆、エネルギッシュな人である。お茶目でもある、そんなお人柄がうかがえる歌を。

ひとり居の〈ドラゴン・クエスト〉わるものにだんだん本気になりてたたかふ

ものしづかに草をうごかす初夏の雨 ふともキョウコグサになりたり

だれかれが待ちくるるゆゑ精を出す大鍋ずつしりわたしのおから

※「おから」に傍点あり。

白雲に悟空みたいにとびのつた どこへ行かうか秋晴れつづく

 最後にもう一首、これまでの人生を思い返す歌。

本当にあつたのだらうか二人子を左右に抱きあげキリンをみた日

   ※ 南鏡子歌集『山雨』(ながらみ書房)

2014年5月1日

短歌との思想的対峙

 「僕たちはきちんと戦争賛美の歌を詠めるだろうか?」という挑発的な書き出しで、吉田隼人が伊藤左千夫について文章を書いている。(角川学芸出版「短歌」2013年10月号。「若手歌人による近代短歌研究(19)」)「いかにして戦争を賛美するか」という観点から、伊藤左千夫の戦争に関わる歌をとりあげ、歌のもつ「演劇性」と「音楽性」を指摘している。見てもいない戦地のことも堂々と詠む左千夫、そこでは、対象を問わず自らの言葉の枠組みの中でその役柄に没入して詠い上げてゆく、それが「演劇性」。その際、リフレインや古語特有の響きを用いることによって、意味を度外視させるほどの肉体的快感をもたらす、その効果を「音楽性」として、「叫び」至上主義の左千夫の作歌理念へと話をつないでいる。文章は、伊藤左千夫の歌の特質をうかびあがらせながら、あきらかに否定的気分を漂わせている。「若手歌人」としては「アララギ」を創刊した伊藤左千夫について、あからさまには批判を差し控えるという配慮がされているのかも知れない。

 ところで、文章の結びは次のようになっている。

 ――(僕は)いくら重大な意味や立派な思想が込められていようと、肉体をして感ぜしめる「叫び」のない歌を信じない。逆に官能的な「叫び」を含む戦争賛美の歌は、凡庸な生活詠の百首、思想詠の千首にもまさると信ずるものである。

 この結びは、伊藤左千夫に敬意を表するための譲歩した表現とは受け取れない。前半の文には異論はない。けれど最後の一文には、歌を官能的な「叫び」に集約してしまうところで共感できない。なげやりな一文なのかも知れない。しかし、官能的な「叫び」であれば、何を叫ぼうがいいということにはならないだろう。叫ばれているものが、差別や戦争を肯定し増長・推進しようという思想に裏打ちされている歌を、優れた歌だとは私は思わない。「凡庸な生活詠・思想詠」を疎む気持ちから、なげやりに戦争賛美を肯定してしまうのはまずいと思う。筆者が本気で戦争賛美の歌を詠みたいというなら別の話である。

 私たちが歌を読むとき、言葉の響きがいい、韻律がいい、比喩が的確だ、とらえ方が絶妙だ、などと評する。もちろん、表現された内容をふまえてのことである。比喩がいいからすばらしい歌だということにはならない。歌はトータルとして表現されたものを私たちは受け止める。その意味で付け加えるならば、(吉田も述べているように)政治的にも文化的にも軍国主義へと突き進もうとしている情勢のもとで、歌のもつ思想や世界観をも見極めて、歌に向き合わねばならないと思う。その際、読者は自らの世界観をきちんと対置しなければならないのではないだろうか。

2013年10月30日

坂楓歌集『ぽぷら』のこと

 坂楓さんから歌集『ぽぷら』をいただきました。坂楓(さか・かえで)さんは塔短歌会の方です。

 坂さんの歌と最初に出合ったのは、『塔』2012年6月号に載せられた次の歌でした。

河原町四条に青き空はあり上がりて北大路さんさんと雪

 ああ、この人は京都の街が根っから好きなんだと思いました。四条では青い空が広がっていたのに北大路まで来ると雪、この日の天候もさることながら、京都の街をゆく詠み手の愛着のようなものを感じたのでした。そして、「さんさん」という語には、明るいかがやきと同時に透き徹ったようなさみしさも潜められています。そこから読み返せば、青い空も雪も対照的ではあるものの、詠み手にとって同じ心持ちでとらえられているのではないでしょうか。風景へのなつかしさを感じさせられる歌でした。

 歌集には、「夫」の登場する歌が数多くあります。それらから、お二人のかけがえのない関わり合いがじんわりと伝わってきます。あわせて、詠み手・坂さんのお人柄もうかがい知ることができます。

春らんの開きし朝は嬉しくて春よ春がきたよと夫呼びてみる

残照の赤きほてりを残しゐるトマト二つ三つ病む夫に穫る

「山を歩きそのまま死ねば本望」とまことにつれない男だつたよ

白内障手術後の手をひいた秋あなたの分まで見たながい秋

 春らんの開花に子どものように心躍らせる詠み手、そのよろこびを共有しようとして夫を呼んでいます。また、夫のためにトマトを穫るのですが、トマトそのものに残照のほてりを感じて慈しんでいます。「つれない男だつたよ」と言いながら、その言葉を引用することで、山歩きへの夫の思い入れをなつかしく思い出してもいるのでしょう。そして、手術後の夫との闘病の日々、その「ながい秋」をふたり分見たのだと言います。一つひとつのものごとを大事に思う詠み手の気持ちが、そのまま「夫」への思いに重ね合わされているように思うのです。

 『ぽぷら』の初版手作り本の「あとがき」に、こんな一文があります。「まとめてゆくということは、その当時が浮かんできて、私一人の楽しい、又時に悲しい貴重な時間でもありました。」坂さんがいかに誠実に歌を詠んでこられたかがわかります。そして、いかに懸命に日々を送ってこられたかも想像させられる一文でした。

 坂さんは、月々いくつもの歌会に出席されているようです。そして、他の人の歌でも自作のものでも、その内実と表現に懸命にこだわり続けているようにお見受けします。そんな坂さんの姿勢が端的に表現された歌を歌集の中に見つけました。

田を畑を埋めて白き雪の面にわが持つ清き言葉を探す

 歌集『ぽぷら』は、横長の和紙を和綴じにした冊子でした。まるで、日々のくらしとその中から生まれた歌をひとつひとつ積み重ねてきたかのような、そんな体裁の歌集です。

 坂さんのような姿勢で短歌を作り続けられればいいな、と思わずにはいられません。

   ※ 坂楓歌集『ぽぷら』(青磁社)

     (真中朋久さんの、作者に寄り添った丁寧で優しい跋文がつけられています。)

2013年4月5日

「とふ」「とう」について

 短歌雑誌を読んでいて、次のようにノートに書き付けたことがあります。

  和歌に見る「とふ」といふ語は和歌山の「ちゅう」と同意義 ガム噛むやうな

 「とふ」というのは、「――といふ」のつづまったものです。和歌の中でもいくつか使用例があるようです。また、「てふ」というのもこれと同じです。有名な持統天皇の歌に、

春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山

というのがあります。これは『万葉集』にあるものですが、これが『新古今和歌集』あるいは『小倉百人一首』では、

春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

となっておさめられています。後世の人にとって、「衣ほしたり」はあまりにも直接的で、音の響きも強すぎたのかも知れません。実景と少し距離をとって蒙昧感を出すために、「衣ほすてふ」と手直しをしたのではないかと思われます。「衣ほすといふ」としてもよかったのですが、それでは逆に伝聞の感じが強く出過ぎてしまい、衣をほすということが単なる情報としての印象を与えてしまいかねません。その中間ぐらい、どっちつかずの感じを出すために、たぶん当時の口語調であったろう「てふ」が用いられたのだろうと考えられます。

 和歌山弁に「ちゅう」という表現があります。「酒ちゅうもんは(酒というものは)」などと使いました。「てふ」は「ちょう」と発音されたかもしれません。和歌山弁とは音が違いますが同じような訛り方でしょう。私は、現代の短歌に用いられる「とふ」に訛った口語の感じをどうしても受けてしまいます。和歌山弁の「ちゅう」だ、などと思ってしまいます。

 まして、「とう」と現代仮名遣いで表記されると、こんな日本語はないだろう、などと思うのです。

 (ちなみに、「出づ(いづ)」を現代仮名遣いで表記すると「出ず(いず)」となりますが、「いず」という日本語はなく、現代仮名遣いを優先させるのであれば、やはり「出る(でる)」を用いるべきだと思います。)

 「とふ」とせねば字余りになってしまう場合も、「といふ」として差し障りないのではないかと思います。

 五音、七音の音数リズムが確立してきたころも、母音は特別扱いされていたようです。『小倉百人一首』の歌を挙げてみます。

契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり

長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

 「契りおきし(ちぎりおきし)」「物をこそ思へ(ものをこそおもへ)」が字余りになっています。ただ、その句の中にどちらも「お」という母音が含まれています。このような場合、字余りとしては意識されなかったようなのです。母音は、音数の中におさまれば一音として扱われますが、一音字余りの句の中では一音としては受け止めずに詠われたもののようです。

 現代の短歌においては、字余りの歌も普通に受け止められています。その中で「とふ」を用いる場合、充分に意図的であるべきだと思います。

2012年7月13日

短歌の鑑賞ということ

 歌を享受する際、その歌がうたわれた場や背景となる事情などがわかっていれば、比較的すんなりと受け止めて味わうことができるかも知れません。けれど、現在、短歌はほとんど活字になったものを読みますし、その詠み手のことをよく知っているということも稀でしょう。さらには、現代の生活感覚はどんどん変化しています。文化状況も雑多な様相を呈しています。一つの歌を共有する上での地盤が危ういものになっているようにも思います。

 私が短歌を鑑賞するときは、活字となった歌を、その言葉のもたらす形象をもとに味わうというやり方をとるしか手がありません。有名な方の歌であれば、おぼろげにも作者の輪郭を思い浮かべながら味わうことが可能です。しかし、それも私が持っている知識の範囲でのことでしかないでしょう。そして、言葉をもとに、という点でも、私の限られた言語能力(?)を精一杯に使ってという限定つきのものとなります。したがって、私の短歌鑑賞は、そういう意味では恣意的なものです。ご容赦願わねばなりません。

 けれど、一つの歌と出会うという有り様は、そんなものだろうと思っています。言葉を媒介にしながら、その時の自分の状況の中にあって、歌に共感したり歌を異化して見たりする、そして、歌の言葉が自分の中に深く入り込んでくる、それが出会いというものだろうと思います。歌の鑑賞は日付のあるものだと言えるでしょうか。

 ところで、歌には、作者のことを知らなくても心に響いてくる歌があります。また、作者のちょっとした情報をもとにして読むと一層沁みてくる歌もあります。さらには、作者の状況を踏まえて読まなければ味わえない歌もあるようです。歌はもともと、心のつぶやきや叫びだと考えれば、作者は様々な観点からその折々の歌を詠むのだろうと思われます。ただ、現代の不特定多数の読者に享受されるためには、歌は一つの意味を持つ確固たるイメージを喚起するものでなければならないのは、どの場合も同じことのように思います。

2012年5月7日