水原 紫苑 (みずはら しおん)
人物
1959年〜 (昭和34年〜 )。神奈川県生まれ。 「びあんか」 「さくらさねさし」など。
鑑賞
まつぶさに眺めてかなし月こそは全き裸身と思ひいたりぬ
〔注〕全き……(またき)完全な。
この歌に出会った人は、それ以後、「ああ裸身の月だ」などと月を見上げているのではないでしょうか。
「月こそは全き裸身」と「月」を捉えた発見(?)に、新鮮な驚きと不思議な納得をさせられてしまいます。玲瓏とした夜空にひとり光を放つ月は、何一つ纏うもののない完全な裸身であるというイメージと、鮮明に合致します。そして、月を「裸身」と見る時、月はつややかな美しさを持ち、はるかなる愛しさの対象となります。詠み手の「かなし」という心境に、読者も同化してゆくことになるでしょう。
「かなし」という語は、「悲しいほどに愛しい」「愛しいあまりに悲しくなる」という、「悲」と「愛」がないまぜになった切切とした思いを言い表す語です。「全き裸身」は純一にして孤絶。愛しむべき素朴さ・純粋さをもつと同時に、いたいけな哀感をも感じさせるものなのです。
詠み手は月を「まつぶさに眺めて」います。「まつぶさに」とは「余すところなく」の意ですから、この人は長い時間、ずっと月を眺めていたのでしょう。月に心とらえられ、動きを止めたままに佇む人の姿が浮かんできます。月を見上げながら、様々に思いをめぐらせていたのでしょう。そして、一つのことに思い至ります。「思ひいたりぬ」という表現は、「そんな思いにゆきついた」ということですが、ここでも詠み手の思考のゆるやかな移りゆきを印象づけられます。この、月を仰いでゆるゆるともの思いする人は、内面はもちろん現代人のものでしょうが、その姿はむしろ平安朝の女性などを連想させる趣をもっているのではないでしょうか。
歌は、月とそれを眺めやる人とを「全き裸身」という語で結び付け、その美的な世界を形づくっていると言えるでしょう。美は、いつくしみとかなしみを湛えて存在するもののようです。
2008年
鑑賞
人ほどもある蝸牛雨の夜を訪ね来たれりいかに遊ばむ
〔注〕蝸牛……(かたつむり)
雨の夜の訪問者が「人ほどもある蝸牛」であることに驚かされます。雨に蝸牛というのは自然なとりあわせです。けれど、その大きさや擬人法による人物化は読者の常識を覆してしまいます。その単純にして、思いがけないイメージの喚起が、この歌のおもしろさとなっています。
また、その訪問に対して、詠み手が「いかに遊ばむ」(どのようにして遊ぼうか)と応じているのが魅力的です。
連想として、『梁塵秘抄』の有名なうたが思い浮かんできます。
――舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん まことにうつくしく舞うたらば 華の園まで遊ばせん――
連想は、白拍子と呼ばれた遊女たちの唄い舞う姿にまで広がってゆきます。
この歌には、こうした中世歌謡の世界が潜められているような気がします。
蝸牛はぬめりのある柔らかなからだを持っています。雨の夜に人ほどもあるかたつむりと遊ぶというところには、なまめかしい淫靡さもほのめかされているように思います。
2012年