短歌鑑賞2

永井 陽子 (ながい ようこ)

人物

 1951年〜2000年(昭和26年〜平成12年)。愛知県生まれ。 結社「短歌人」。

 「樟の木のうた」 「ふしぎな楽器」 「モーツァルトの電話帳」 「小さなヴァイオリンが欲しくて」など。

鑑賞

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

 歌われた事態としては、「ゆふぐれに櫛をひろへり」ということですが、その事態に思索をめぐらした下の句に読者は驚かされます。それは、「わたし」が櫛を拾うということを、主語を転換させて、櫛が「わたし」に拾われたと言い換えただけの内容になっているからです。しかも、それなのに限定の助詞「のみ」によって、そのことが強く確認されているのですから。「のみ」には、それ以上のことではないのだ≠ニいう、「わたし」の突き放したような詠嘆的な感情を感じさせられます。

 櫛は「わたし」に拾い上げられた対象物です。拾い上げられて恥ずかしいとか情けをかけてもらえたとか自分は有用のものであったのだとか、櫛にとっては、拾われたことにどのような意味も持ち得ません。「わたし」の行動には感情やら意志が働いているかも知れませんが、対象物である櫛の方は、そういった「わたし」の思いとは全く無関係であるわけです。どのような数奇な運命をたどったとしても、櫛は櫛としてなされるままに存在するしかありません。下の句では、そうした櫛の存在の仕方に、「わたし」はむしろ自分を重ねて見ているのかも知れません。そして、拾うという行為によって関わり合った「わたし」と櫛は、拾い拾われるということ以外に何の交流もない疎遠さの中にある、ということなのでしょう。

 素材となっている「ゆふぐれの櫛」は、どのようなものかわかりませんが、もしかすれば日本髪に挿すような装飾としての櫛かも知れません。そう考えると古風な感じもします。また、『古事記』あたりからくるのでしょうか、櫛は魔除けの呪具と考えられたようですし、逆に、櫛を拾ったたりすることを不吉なこととして忌む習わしもあるようです。櫛にはどこか蒙昧とした神秘さがあるように思われます。

 その櫛はどうしても「ゆふぐれ」のものである必要があります。「ゆふぐれ」が二度繰り返されることによって、この歌のトーンが形づくられています。また、「ゆふぐれ」と平仮名表記することによって、その時空間がもつ、気の弱まり、やわらかな感触、ぼんやりとした暗さなどを印象づけて、それがこの歌の心理的な気分を表現していると言えるでしょう。

 「ひろふ」という語も同じく平仮名表記されています。「ひろふ」という動作が、意図的な明確さをもつものでなく、ゆるやかで何げない虚ろな動作であるというイメージを効果的に作り出しています。

 以上のように、この歌は、一見理屈と見える表現の内に、ひとつの情感をきわめて感覚的に歌っていると言えるでしょう。やわらかな薄暗さの中に虚脱感が漂っている歌ではないでしょうか。

2008年

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