短歌鑑賞2

小池 光 (こいけ ひかる)

人物

 1947年〜 (昭和22年〜 )。宮城県生まれ。

 結社「短歌人」。 「時のめぐりに」 「山鳩集」 「うたの動物記」など。

鑑賞

楷の木のもみづるしたに立てる時とりかへしつかぬものの数々

(注)楷……「かい」ウルシ科の落葉高木。

 これまでの人生を振り返りながら、もうとりかえしがつかないと思い返すことは少なくないのではないでしょうか。そうした経験をもつ人は、下の句で「とりかへしつかぬものの数々」と述べられただけで、この歌に共感を覚えてしまうことでしょう。 とりかえしがつかないこととして詠み手が何を想起しているのか、といったことは不明です。けれど、この歌は、多数の人が同じような感慨をもつであろうというところに依拠して、共感を呼ぶのだと思います。

 楷の木は、人を惹きつけるなつかしいものを持った木だと思います。雌雄異株の大木ですが、こんもりと繁らせていた葉が秋が深まると黄へ紅へと少しずつ紅葉してゆきます。それに、時雨が降り注ぐような時は本当にしんみりするものです。また、葉を落とし裸木となった楷の木も素敵です。枝枝を空へ伸ばしてすっくりと立つ姿には、澄みきった風情を感じさせられもします。個人的な思い入れになりますが、楷の木は、その木を見る者を映し出す鏡のような木だという印象があります。そこまで言わなくとも、紅葉する木に自らを重ね合わせ、季の移りゆきに「あはれ」を感じるのは、日本の伝統的な感性のあり方かも知れません。

 詠み手は、楷の木の下に立ってもみぢ葉を見上げながら、心を深く沈潜させた時、言い難い悔恨の情にとらわれたということなのでしょう。

 楷の木は、孔子廟に植樹されたところから、学問に関わる木として知られています。そのことと関連づければ、とりかえしのつかないものとは主に学問上のことであるのかとも想像可能なのですが、そこまで言う必要はないし、また言い得ないことでもあります。

 上の句の中の「もみづる」は、紅葉する≠ニいう動詞ですが、現代の者にはなじみにくい表現かも知れません。

2008年

鑑賞

ストーブの前にしづかに端座してなげくとてなき猫の晩年

 猫がおだやかに、あるがままの自分に安んじるがごとく、座っています。

 その猫のさまを「なげくとてなき」と述べたところに、詠み手の深い嘆きの思いが込められています。自らの嘆きを心に押し込めながら、ぼんやりと猫を眺めているのでしょう。猫は歌のきっかけにすぎません。詠み手が見ているのは、自分自身のこころの内です。こころの虚ろを猫にことよせて表出した歌と言えます。

 同じような気分を次のような歌にも見ることができます。

霧雨のくだれる中に傘さして曼珠沙華の花みてゐる男

庭隅にひらきそめたる芍薬のましろの花を見るはわれのみ

ふたつのみことし生りたるくわりんの実ひとつが落ちてわれは拾へり

 小池光は、2010年に連れ合いの方を亡くされたようです。これらの歌には、私自身、身につまされて、涙せずにはいられません。

2012年

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