安田 純生 (やすだ すみお)
人物
1947年〜 (昭和22年〜 )。大阪府生まれ。
結社「白珠」。 「蛙声抄」 「でで虫の歌」 「歌ことば事情」など。
鑑賞
朝聞きし幼子の声また浮かぶ「だれがやつたん お前がやつたん?」
会話文というのは、具体的な情況を実感として伝える効果を持つと同時に、その情況の中において理解されなければなりません。短歌という短い文脈の中で一つの会話の意味合いをとらえることが本当に難しいことだと、この歌を読んで思います。
「だれがやつたん お前がやつたん?」
これを強い口調で言うと、相手を非難する激しいいらだちの言葉となります。しかし、小さな声でやさしく言えば、逆に相手に同情を寄せ、庇おうとするような調子になります。その他、微妙に異なるバリエーションが考えられます。つまり、この言葉が発せられた情況もまた確定できないということになります。
したがって、詠み手がこの幼子の言葉をどのような気持ちで思い返しているのかも、その情況設定によって異なってきます。けわしい言葉を相手に向けて口にした幼子のざらついた心を思っているのだととることもできます。反対に、幼子の大人ぶった口ぶりに、そのかわいらしさを見ているととることも可能です。或いは、幼子の口をついて出た言葉に、自らが追及を受けているようなつらい心持ちになっているともとることができます。詠み手の位置も不明です。どのような詠み手の心情を思い描くかは読む者にまかされていると言えるでしょう。
作者は、具体的な状況や詠み手の思いを伏せておいて、大阪弁のおもしろさを提示してみせたのだとも言えます。「あなたならどんな風に読みますか?」と、作者自身おもしろがっているかも知れないのです。いろんなバージョンを設定して、あなたの仕方で、一度声に出して読んでみて下さい。
「だれがやつたん お前がやつたん?」
私自身は、これを強い口調で読んでみたいと思います。
ある事態について、「幼子」が誰かに犯人追求・責任追及の言葉を投げかけたものと考えます。「幼子」はその事態をどうしても許せません。追い詰められた気持ちは、相手に思いをかけない非情さと嫌悪となって表れます。その幼子の声を思い返しながら、詠み手は「幼子」のすさんだ心、ざらついた心に、やるせないわびしさを感じている。一例として、こんな解釈も可能でしょうか。
ともあれ、「だれがやつたん お前がやつたん?」という言葉を、詠み手とともにただ反芻しておくのが一番いい読みかもしれません。
2008年
鑑賞
遠くより吾を見てアホと会はぬやう横道えらぶ人もあらむか
(注)吾……(わ)と振られています。
こういう場面に時として出会うことがあります。
その人を遠くに認め、顔を合わせたくない、道連れになりたくないと思って横道にそれることがあります。どうも苦手な人、共通の話題もなく気詰まりになる人、仕事の同僚の中には、仕事でならいいのだけれど個人的にはどうもといった人がいたりします。そうした人と一対一になることは避けたいという心理がはたらくことがあります。
この歌の場合は、逆です。自分が避けられるという内容です。ただ、「あらむか」と疑問の形になっているところには、避けた相手をあげつらうのではなく、避けられた自分を歌うのだという姿勢が表れています。そうであるにしても、なにげない他者の動作に「避けられている」ということを敏感に感じとる繊細な感性が潜められています。
おもしろいのは「アホと会はぬやう」です。ここでも大阪弁の「アホ」でしょう。「アホな奴」といえば、批難と同時にあきれ果てた親しみの雰囲気があるのが大阪弁です。自分は他人から見たらアホということになるだろうという、軽い自分への揶揄を含み持たせながら、横道をえらぶ人との相容れない関係をざっくばらんにとらえてみせたということになります。そうした関係ではあるが、それもどうということもないかといったおおらかさを、「アホ」という語がかもし出しています。
安田純生は、日常のひとこまをとらえた楽しい、おもしろい歌を多く作っています。二首、下に挙げておきます。一首目にはおかしみを、二首目にはユニークなユーモアを感じています。
つと抓みナースは入れつなよびたるわが一物を溲瓶の口に
(注)抓み……「つまみ」 溲瓶……「しびん」
前世にて覚えし言葉かハラレベタ、クルラボタとぞ呟き歩む