短歌鑑賞2

東 洋 (あずま ひろし)

人物

 1941年〜 (昭和16年〜 )。東京都生まれ。 結社「音」。 「春の古書店」

鑑賞

わたしは何もしていないよと押されゆく誰もが何もしていない流れ

 通勤途上、ラッシュ時の駅の雑踏の中にあれば、この歌に全くその通りだと実感させられます。満員電車に乗り込む時、とりあえずは自分の立つ場所を車内に確保します。すると、あとから乗り込んで来る人に押され、それにまかせて他の人にぶつかりながら立ち位置を変え、知らぬ間に車内奧にまで進んでいたりします。後ろから押されることを計算に入れて最初の立ち位置を決めることもあるかも知れません。改札を出る時なども同様です。

 「押されゆく」ということは、つまりは自分も他の人を押しやっているのです。「わたしは何もしていないよ」という顔をしながら、自分の位置を守るべく行動する人々によって、一つの流れがつくり出されているのです。この歌は上の句において、自分たちがつくり出している「流れ」に対する、個々の責任逃れの欺瞞を指摘しています。それを下の句で、「誰もが何もしていない」と確認することによって、その言い訳を揶揄しています。

 しかし考えようによっては、「流れ」があらかじめ作られていて、人々はその「流れ」に乗っかっているだけで、その意味では「誰もが何もしていない」と言えるかも知れません。そんな風に下の句を文字どおり読めば、誰もが何もしていないのに「流れ」が出来ていることの不気味さ・怖さが思われます。そしてその場合は、誰もが何もしていないことによって「流れ」が形成されているのですから、「流れ」に対して何もしない、その無自覚さが浮き彫りになると言えるでしょう。

 詠み手は「流れ」に注目しています。自分のことにのみかまけて、自らの置かれた状況に主体的に関わるどころかむしろ関わることを避けるようにして無自覚でいる人々、そんな群衆をのみこんでゆく「流れ」を、詠み手は危ぶむ思いで捉えているのではないでしょうか。

 以前に、学生が安易にアルバイトすることを歌った短歌を読んだことがあります。学生の多くがアルバイトに従事することが、いかに多くの失業者を生む要因になっているか、といった内容だったと思います。現在、アルバイトやパート労働が増加しています。それは社会の経済機構の中で作り出されたものであるわけですが、そこに従事する者は生活上必要にせまられて、そういった労働形態に入ってゆきます。そして、その労働は、他方で失業者を生む要因ともなるという悪循環を作り出しながら、一方ではまた労働者使い捨てのような状況を作り出し、労働者の賃金が低く抑えられるテコにもなっていると言うことができます。そうだとすれば、現在の労働力流動化政策の流れの中にあって、自分たちを苦しめるその「流れ」を自分たちが支えてゆくといった状況だと言えるでしょう。

 この歌から、そういったことも連想されるのです。これだけではありません。様々な世の中の悪しき流れ、不穏な風潮、そういったものにもこの歌の有様が当てはまるのではないかと思いは広がってゆくます。

2008年

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