河野 裕子 (かわの ゆうこ)
人物
1946年〜2010年(昭和21年〜平成22年)。熊本県に生まれる。
昭和39年(1964)に「コスモス」、平成2年(1990)「塔」に参加。
歌集に『森のやうに獣のやうに』(昭47)、『桜森』(昭55)、『歩く』(平13)、
『葦舟』(平21)、遺歌集『蝉声』(平23)などがある。
鑑賞
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
※『森のやうに獣のやうに』(昭47)所収。
略奪の熱情
『伊勢物語』の「芥川」でも、「男」が、心を寄せていた「女」をさらってゆきます。古くから、男が好きな女を、いわば拉致するようにしてめおとになる、といったことが行われていたようです。略奪婚といいます。なんとも強引ですが、どこか原始的な熱情のはげしさやおおらかさを感じます。
この歌では、それを女性の側から望んでいるということになります。これもまた、はげしい熱情の告白と言えるでしょう。
「ガサッと落葉すくふやうに」という比喩は、すばやくて、しかも広く大きな度量を「君」に期待したものでしょう。同時に、この比喩には、どこか土の匂いがします。散り積もった落ち葉をすくいあげるという体験がなければこの比喩は出てこなかったのではないかと思います。土着の感性をそなえた「私」なのだと言えるでしょう。現代の、都会に住む者には使えない比喩ではないでしょうか。
やむにやまれぬ恋情というものを抱いた時に、女性はこのような気持ちになるのでしょうか。「さらつて行つて」ほしいと思うものなのでしょうか。現代の若い人にたずねてみたい気がします。
ただここでは、情熱的な若々しい息づかいが言葉になったと言えるでしょう。
2012年
鑑賞
コスモスの倒れ伏したる庭に来てしんみりするぜと綿虫が言ふ
※平成17年(2005)の作?
晩年の歌について
河野裕子は2010年8月12日に亡くなりました。
2011年の6月に、私の妻が癌により亡くなりました。妻の実母が2010年に亡くなりましたが、妻は自分の病気を母に隠しながら、母を見舞っていました。そして、母の最期を看取り、喪主として母を見送ったのでした。妻とよく似た経過を、河野裕子はたどっています。その頃の、自身の死を見つめた歌や家族との関わりを詠んだ歌を読むと、どうにもつらくてなりません。そうした身につまされる歌は避けて、もう一首ここにあげておきたいと思いました。
「綿虫」という人物
「綿虫」は、初冬に飛ぶ小さな虫。北国では雪虫とも言うそうです。もう秋も終わりということになります。
コスモスは群れてやさしい花を咲かせます。けれどいかにも弱々しく、強い風が吹けば支えなしにはすぐに倒れてしまいます。この歌の場合は、強風のあとの庭先なのでしょうか。綿虫のもつ季節感からすると、半ば枯れて倒れているのかもしれません。
歌のおもしろさは、綿虫が「しんみりするぜ」と言うというところにあります。
何が「しんみりする」のかと言えば、コスモスが倒れ伏すといった、乱れた庭の風情を見てのことでしょう。そこに、ひとつの季節の移りゆきを感じているのでしょう。コスモスから言えば、滅びの季節が訪れているということになります。そうした風情に、静かなしみじみとした思いを抱いているのです。それは詠み手の情感でもあるでしょう。
ところが「しんみりするぜ」という綿虫の口ぶりには、変に明るいものがあります。この綿虫は、まるで任侠の世界に生きるかのような人物です。きどっています。「しんみり」と沈んでゆく気分を、あからさまに「しんみりするぜ」と言い立てられてしまうと、その「しんみり」がとても良いもののように思われてきます。コスモスの倒れ伏す情景を負と考えれば、この言い回しがそれを正に転換すると言ってもいいかもしれません。
庭先を眺めやる詠み手の思いを伏せて、庭に展開するメルヘンとして情景を語るところ、この歌の素敵なところです。綿虫はなかなかいい奴です。
私の投稿歌
角川学芸出版『短歌』の投稿欄で、私の歌が河野裕子選で採られたことがあります。2008年6月号でした。
次の歌です。
少し経てばここに私は居りません――トマトジュースを買ひに行くから
この歌を見て、私の妻は「おもわせぶりで失礼な歌だ」と言いました。死を前にして、それをトマトジュースを買いに行くなどとちゃかすのは不届きだと言うのです。けれど、この歌は、私が癌の手術を受けて退院したころのものでした。死に直面していたのではありません。それでも、自分の存在がなくなるということを考えると、不安というかおそれというか空虚というか、奇妙な気分に見舞われました。そんな自分の気持ちを歌の中でも「トマトジュース」でごまかさないではいられませんでした。その気持ちの立て直しを「――」で表しています。だから、決しておどけているのではなかったのです。ただ、歌がどう読まれるかに思いが至らなかったのでした。
撰者は厖大な数の歌を読むのでしょう。いちいちの歌を心にとめておくなどは無理なことだと思います。河野裕子さんも私のこんな歌をもう忘れているだろうと思います。
2012年