寺山 修司 (てらやま しゅうじ)
人物
1935年〜1983年(昭和10年〜昭和58年)。青森県に生まれる。早大中退。
歌集に『空には本』(昭33)、『血と麦』(昭36)、『田園に死す』(昭40)、などがある。
鑑賞
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
※『われに五月を』(昭32)所収。初期歌篇、高校時代の作。
少女とわれ
海を知らない少女に、両手を広げて海の果てしない雄大さを語ろうとしている歌、と説明することができます。
「海を知らぬ少女」からは、山あいの地で育った初々しい素朴な少女をイメージさせられます。その少女に、両手を広げて向き合っている「われ」の姿からは、明るく華やいだ気分が想像されます。少女への好意とともに、誇らしいまでの自信のようなものを感じさせられます。「両手をひろげ」るという動作は、「海を知らぬ」ことに対応させてとらえれば、少女に海の雄大さを示しながら少女と「海」のイメージを共有しようとしている姿だと言えるでしょう。「海」という広大なものへのあこがれを背景にした、若々しいこころの交流として、この歌を読むことができます。
麦藁帽のわれ
一方、「海を知らぬ少女」を説明的な断定だとし、「両手をひろげ」るという動作もどこか演劇的なわざとらしさが感じられる、そういった批評を目にしたことがあります。その点でいえば、「海を知らない」という設定自体が不自然なものだと言えます。
詠み手は、上に述べたような、少女と「われ」の1シーンを描こうとしたのではないと思うのです。詠み手にとって問題なのは「われ」であり、「麦藁帽のわれ」を外側から異化して歌おうとしているのではないでしょうか。
「海を知らない」ことは一例であり、少女が知らないことを「われ」が知っているということがここでは重要なのでしょう。経験や知識の上で相手より優位に立っている者が、それだけの理由で相手に対して有頂天になって誇らしげにふるまう、そうした「われ」の浅はかさを見ているのではないでしょうか。
「麦藁帽」は、夏の明るい日射しと人物の素朴さを感じさせます。一方で、田舎に暮らす、少女と何ら変わるところのない「われ」であることも示しています。自慢げな「われ」を戯画化しているともとれるのです。
この歌から、若い作者の自意識のようなものをとらえたいと思います。
2013年7月
鑑賞
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
※『空には本』(昭33)所収。
暗い思索
現代の若い人たちには、「マッチ」はほとんど馴染みのないものでしょう。マッチを擦ったときに一瞬炎が大きく燃え上がるイメージを実感してほしい歌です。マッチの軸はすぐに燃えてしまうので、擦った瞬間が大切なのです。炎が出た瞬間、それが「つかのま」です。
「マッチ」を擦るというのは、たぶん煙草に火をつける行為です。海辺でキャンプでもしていて、薪に火をつけようとしている、ととるのは場違いでしょう。今は煙草も嫌われ者ですが、ニヒルに煙草を吸うのがひとつのカッコ良さでもあった時期があります。ここでも石原裕次郎ばりのカッコをつけていると見て下さい。ただし、詠み手としては、「マッチ擦る」行為で、深刻に考えをめぐらしている人物を設定しています。
情景は夜でしょう。真っ暗で、周囲には何も見えません。マッチを擦った瞬間に、その小さな炎によって海に立ち込めている霧が浮かび上がったのです。下の句と関わらせたとき、「霧ふかし」という情景は、見通しのもてない、茫漠とした思いを間接的に表現するものとなっています。
祖国喪失と虚無
詠み手が深刻に考えているのは、自らの生き方です。下の句で、「身を捨てるほどの祖国はあるのか」とあります。国の進むべき方向とそれへの自らの関わり方について考えています。
第二次世界大戦時、「お国のために死ぬ」ことが名誉とされました。そこまでいかなくても、「日本のために身を投げ出してがんばる」といった発想が現在でも生きています。この下の句は、そうした全体主義的な自己犠牲をいうのではありません。むしろ逆です。
「祖国」は、「お国のために」の「お国」とは違います。共通の文化や生活様式を形成し、歴史と伝統を形づくる民族のまとまりを「祖国」と言います。そこでは、そこに暮らす一人ひとりが主体性をもって自分たちの国を作り上げてゆくということが前提とされます。つまり、祖国のために身を捨てるとは、あるべき国の理想のために、その理想追求を個人的な利害に優先させて考え行動する、ということになります。その際、時には国家権力と闘うということにもなるでしょう。
第二次世界大戦終結後、日本の民主化が言われました。復興・発展の時代、国民の生活と政治は直結したものとして意識されていたと言えます。そんな中で、この歌の下の句があります。
ここでは、国の理想を追求することへの懐疑がうたわれています。価値を置く共通のものなど無いのではないかという虚無感がうたわれています。
「マッチ」つながりでもう1つの歌を思い出します。次の岸上大作の歌です。
2012年