短歌鑑賞1

斎藤 茂吉 (さいとう もきち)

人物

 1882年〜1953年(明治15年〜昭和28年)。山形県生まれ。東大医科卒。

 明治39年(1906)、伊藤左千夫に師事。「馬酔木」「アララギ」に参加。

 歌の理念として、写生の立場から「実相観入」(実相に観入して自然・自己一元の生を写す)を主張。

鑑賞

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

※『赤光』(大正2)所収。「死にたまふ母 其二」中の一首。1913年(大正2)の作。

〔注〕玄鳥……(つばくらめ)つばめのこと 屋梁……(はり) 足乳ねの……(たらちねの)

 下の句にあるように、この歌は、臨終に近い母を見守っている歌です。

下の句にみる「母」像

 「足乳ねの」は「母」に掛かる枕詞。当てられた漢字からもうかがえるように、詠み手自身を「大切に育んでくれた」といった意味をも担って、「母」のかけがえのなさを強調しています。同時に、奈良時代に用いられたこの枕詞は、この「母」が、古めかしい時代を背負った母であるというイメージをかたちづくるものともなっています。作者の『万葉集』への傾倒と明治時代を生きた母の像とがうまくマッチしたとも言えるでしょう。

 現代の私たちがこのような枕詞を使うとすれば、音の響きのおもしろさや、ある場合にはアイロニーやユーモアを醸し出すものとなるかも知れません。

 「死にたまふなり」には、母の死を予感し、死んでゆくことを自ら確認し納得せざるを得ないという、詠み手の深い悲嘆の思いがこめられていると言えます。

 「死にたまふなり」を現代語で言うとすれば、「死んでゆかれるのだ」「お亡くなりになられるのだ」となります。「たまふ」(〜なさる)という尊敬語は身分制社会の中で欠かすことのできない語としてあったはずです。けれど、現代の歌にこのような敬語を持ち込めば時代錯誤と言えるでしょう。現代の私たちは、父母に対してこれほども厳重な敬語をもって対することはないのではないでしょうか。

 ところが、詠み手にとって「母」は、当然敬うべき存在としてあり、古典の尊敬語を用いても何ら不自然な感がなかったのでしょう。封建的なものが残る社会状況とそこでの詠み手の倫理観をもうかがわせる表現となっています。

「のど赤き玄鳥」その実景がもたらすもの

 上の句と下の句とのつながりについては、茂吉自身が次のように述べています。

「もう玄鳥の来る春になり、屋梁に巣を構へて雌雄の玄鳥が並んでゐたのをその侭あらはした。下句はこれもありの侭に素直に直線的にあらはした。さてこの一首は、何か宗教的なにほひがして捨てがたいところがある。世尊が涅槃に入る時にも有象がこぞって歎くところがある。私の悲母が現世を去らうといふ時、のどの赤い玄鳥のつがひが来てゐたのも何となく仏教的に感銘が深かった。」

(『作歌四十年』)

 上の句は、目にした実景をそのまま叙すことによって、死にゆく母の時間を具体をもって表現し、その時間が何にも替えられない厳粛な時間であることを感じさせるものとなっています。そこに宗教的な気分も醸し出されていると言えるでしょう。

茂吉の生きた時代と「母」

 ところで、この上の句の情景を現代の若者たちがイメージできるでしょうか。茂吉の生家は山形県にありました。その山形県の、明治のころの古い農家を想像してみましょう。

 母屋の入り口をはいるとすぐに土間があります。土間から座敷へは普通上がり框(がまち)といって、一段低い横板が付けられていたものです。土間を奥に入れば、今でいう台所です。竈があり流しがあります。土間をはさんで台所の反対側は板間となっていて、そこがいわばダイニングとなります。(もちろん一例ですが)

 土間の上には天井はなく屋根裏まで見渡せます。そこに太い横木、屋梁があるのです。

 玄鳥、つまり燕はその屋梁のあたりに巣を作っているのです。昔の農家では、燕が自由に家に出入りできるようにと、入り口の戸に燕が通り抜けられるだけの穴を設けていたものです。燕が巣をつくる家は栄えるということで、どの家でも燕は大切に扱いました。

 こうしたことを述べるのも、上の句が、枕詞と同様に、「母」と詠み手の生きた時代や風土といったものを感じさせるからです。むき出しの太い屋梁のある家で、「母」は一生を送ってきたのです。古いしきたりも多く残っていたであろう「家」という制度の中で、この「母」は家事その他をとり仕切って生きてきたのだろうと想像されます。現代の私に、古めかしい大きな家の、うす暗い雰囲気を感じさせる叙景となっています。

 「母」の危篤に際して帰省した詠み手は、畏敬の念をもってその死を厳粛に受け止めようとしています。この歌は、「母」の死を前にした厳粛な思い、深いかなしみを詠うものであると言えるでしょう。

 その一方で、この歌を異化して眺めたとき、私たちとは異質な時代・風土・親子関係が、偶然にも読みとれるものとなっています。そのことがこの歌を読む意義の一つと言えるでしょう。

「母」を歌う

 ちなみに、「母」を詠んだ歌で心に残っているもののをいくつか挙げてみましょう。

配給のタバコをパンに換え来たる母の笑顔を今も忘れず

八木健輔

病む我に食べよと母の剥きくれし戦後の小さき林檎忘れず

須々木誠一

谿川の崖の上より東京に発ち行く吾を呼びたる母よ

細川謙三

酔いて遅く帰り来たりし灯の下に塑像の如く母の坐(お)りたり

石田比呂志

ふと見れば吾が母なりきプール脇に立ちて見守る日傘の人は

向山益雄

母よりは先には逝けぬ屈まりて草をぬきゐるさまみてあれば

時田則雄

まるひと日家を空けたら走り出てわれに裸足で泣きつく母よ

竹村公作

長椅子に母とすわれば母は聞くこのアイスクリームお前食ふかと

柳宣宏

緊急の呼び出しボタンを握りしめ酸素吸入受けをり母は

香川哲三

「英治来る」と記しし一行の文字の濃し逝きて五年の母の手帳に

吉川英治

在りし日もかなしと思ひ死してなほかなしかりけり母といふもの

岩田正

 意図的に男性歌人のものばかりを挙げました。ここには、思い出の中の母を含め、さまざまな母との関わりが歌われています。茂吉の「母」は明治の母でした。右の歌に歌われた「母」は、おそらく昭和の母だと思います。今後、詠み手としての息子から「母」はどのように歌われてゆくことでしょう。「母」の方も、違った「母」が出現しつつあろうし、母子の関係も変わってゆくと想像されます。その時でもなお、岩田正の歌のように、「母といふもの」が「かなし」ととらえられることでしょうか。

2012年

鑑賞

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

※『白き山』(昭和24)所収。「逆白波」(5首)中の第3首。1946年(昭和21)の作。

〔注〕逆白波……(さかしらなみ)

 「なりにけるかも」は、現代語では「なったことだなあ」という意味になります。「なりにけるかも」というのは、そのような状態に至ったことに対して強く心を動かされた時に用いられた表現です。日中も雪か降っていたのでしょう。それが夕刻には吹雪となった、その時の感慨が歌われたものです。

「逆白波」という語

 上の句が吹雪のさまを描いています。「たつまでに」とは「たつほどに」ということで、吹雪の情景の極みの一例を挙げた形になっています。
最上川は、残念ながら見たことがありません。山形県を貫通する川ということで、大きな川が想像されます。茂吉はこのころ、最上川沿岸の大石田という町に疎開していました。そして毎日この川べりを散策していたようです。

 「逆白波」というのは、茂吉の造語のようです。白波がたつのは流れが何かに妨げられたときに立つものでしょう。川一面に白波がたつと表現してもよかったのでしょうが、それを一語で「逆白波」と言い表しました。そのことによって、川の流れとは逆に吹く強い風によって川面に白波がたっているのだということを詠み込みました。つまり、「逆」という語が、水が流れてゆく力と強い風の力がせめぎ合っているという、吹雪のすさまじさを印象づける役割を担っています。

読み手の位置と歌のこころ

 ところで、最上川の情景を詠み手はどこで見ているのでしょう。写生といっても実景をその場で詠むのではなく、もちろん机の上などで歌を書き記しているわけですが、逆白波のたつ最上川を詠み手が実際に見たとは思われません。吹雪の中を川べりに出かけてゆく人はまずいないでしょう。(いるかも知れませんが。)見ているとすれば、詠み手は川べりの二階家の窓などから眺めているのだと思われます。見ていないとすれば、逆白波の情景は、日頃から川べりを散策している茂吉のイメージだと言えるでしょう。いずれにしても、「〜までに」という比喩的な表現と「なりにけるかも」という一定の距離感をもった感慨の表現からは、詠み手が吹雪の中にいるのではなく、それを眺めやることのできる安全な場所から、いわば傍観の位置に身を置いて情景を見ていると感じさせられます。

 ちなみに、歌集『白き山』の中で、この歌の少し前に次のような歌があります。

最上川のほとりをかゆきかくゆきて小(ちひ)さき幸(さち)をわれはいだかむ

 終戦後の疎開先での生活の中にして、茂吉は少しく安定した穏やかな境地を手に入れたようです。「逆白波のたつまでにふぶく」情景を、詠み手の心象風景ととらえることも可能ですが、右の茂吉の境地からしても、歌のもつ雰囲気からしても、心かき乱されているとは言い難いと思われます。

 最上川の、流れも白波だつすさまじい吹雪の情景は、もしかすれば、戦後の混乱した社会状況をイメージさせるものかもしれません。

 詠み手は、訪れた悪天候の中で、自然の激しい力に茫然と驚いています。自然の猛威にとり籠められながら、穏やかなこころで自らをさびしむ歌だと言えるでしょう。

2012年

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