正岡 子規 (まさおか しき)
人物
1867年〜1902年(慶応3年〜明治35年)。松山市に生まれる。東大国文科中退。
俳句・短歌の革新運動をすすめ、「写生」を唱導する。
明治31年(1898)、新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」を連載。
歌集に『竹の里歌』(明37)がある。
鑑賞
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
※ 『竹の里歌』(明治37)所収。明治34年の作。
〔注〕瓶……(かめ)花器のつぼ。
花山周子の鑑賞
角川学芸出版「短歌」2012年1月号に、この歌について花山周子が鑑賞文を書いています。その丁寧な節度ある文章の中で、「味わいという点でこの歌は淡泊すぎる」としながらも、「みじかければ」に言葉の能動性をとらえて、「作者の生き生きとした眼差し」を感じると述べています。
作者の状況をふまえた読み
歌意は、「花瓶にさしてある藤の花、その花房は短いために畳の上に届かないことだなあ」となります。
「みじかければ」は、形容詞「みじかし」の已然形「みじかけれ」に「ば」がついて確定条件句を作っています。(ちなみに、最後の「けり」は、過去の助動詞「けり」の詠嘆の用法です。)
「花の房が短いので畳の上に届かない」――当たり前の説明ではないかと思えます。もし、この歌が正岡子規のものではなかったら、(また、のちの「アララギ」の人たちによって子規の代表作だとまで持ち上げられてこなかったなら)「それがどうしたと言うの?」というのが読者の感想ではないでしょうか。
花山周子の文章をなぞることになるのですが、私たちはこの歌を子規の歌として読まなければならないということになるでしょう。
この歌には「詞書(ことばがき)」がつけられています。「仰向に寝ながら左の方を見れば」机の上に活けられた藤の花が今を盛りの有様、それに感興を催して歌を詠んだのだということです。
上から藤の花を見ているのではなかったのです。病床にあって下から花を見上げているのだという、その作者の視線に同化した時、何とはなしに歌の心持ちがわかるような気がします。
垂れ下がる藤の花房は、生き生きとして今を盛りのうつくしさです。詠み手はそれに強くこころを惹かれています。畳の上にまで垂れ下がるものなら、寝たまま間近に花を見ることができます。しかしそうはいきません。なぜなら房は「みじかいから」です。つまり、説明っぽい表現は、詠み手の藤の花に寄せる強い思いによるものだと言えるでしょう。
生き生きとした藤の花と病床にある作者という対比は図式的すぎるかも知れません。ですが、この歌の否定的表現には何か満たされない気分の反映もあるのではないかと思います。
不思議な魅力
正岡子規に、次のような俳句があるのも有名です。
鶏頭の十四五本もありぬべし
これも、この歌と同様、何ということもない句です。ですが、鶏頭の花を見かけたときにふとこの句が頭に浮かんできます。藤の花に関してこの歌が思い出されるのも同じです。それは、藤の花房がそこに垂れ下がっている、鶏頭がそこに群れて存在している、そのことを見つめ、確認する歌や句になっているからなのでしょう。
それにしても、先に述べたように、このような歌が現在詠まれたとしても、たぶん読者は何の感慨も覚えないのではないでしょうか。それは、歌を読む際の読者の姿勢によるものなのでしょうか。或いは時代・社会の状況からくる言葉の働きの違いによるものなのでしょうか。
余談ですが、「〜なので〜だなあ」というこの歌の語法をまねて、こんな歌を作ってみました。
自転車のサドルわづかに高ければ地面に足が届かざりけり
足の届かない自転車に乗ろうとして左右にゆらゆらしている人を思い浮かべて下さい。滑稽でしょう。無理せずに、サドルを下げればいいじゃないかと思いませんか。
2012年
追記――高野公彦の解説
2014年8月23日、「塔」60周年記念全国大会が京都で行われました。その記念講演として、高野公彦氏が「曖昧と明確のはざま」という題で講演をしています。その講演の中で、歌をその初出に立ち戻って読むことも必要だとして、正岡子規のこの歌に触れています。その解説の概略を以下に紹介します。(ただし、丸山が聞き取った内容に加筆したものです。)
歌の、「みじかければ」という作者の判断はどこから来ているのか。
この歌には次のような詞書が付けられています。
「夕餉したゝめ了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそぞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。」
ここに、「そぞろに物語の昔などしぬばるゝにつけて」とありますが、作者はどのような物語を思い起こしていたのでしょうか。この詞書自体、文体として平安朝の物語の文体をまねています。そこで、平安朝の物語を探してみると、『伊勢物語』に藤の花を題材にした段があります。第百段です。作者はその物語を想起していたのではないかと推察されます。
『伊勢物語』第百段の内容は次のようです。在原行平(ありはらのゆきひら)の家に、酒を目当てに殿上人らが訪ねて来ます。そこで訪問客の中の藤原良近(ふぢはらのよしちか)を主客として酒宴が催されます。家内には花が瓶に活けられています。そして、「その花の中に、あやしき藤の花ありけり。花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける。それを題にて歌よむ。」とあります。三尺六寸は、およそ110p、1メートルを超える長さです。この長さを作者は判断の基準としていると言えます。(ちなみに、その段には、藤の花になぞらえて、死去した藤原良房(ふぢはらのよしふさ)の偉大さを詠む歌が添えられています。)
では、子規が詠んだ藤の長さはというと、『墨汁一滴』の(四月二十九日)の節に、「枕辺を見れば瓶中(へいちゅう)の藤紫にして一尺垂れたり。」とあります。三尺六寸に対して子規の机の藤は一尺(約30p)、これが「みじかければ」という感慨の背景としてあるのだと言えます。
つまり作者は、平安貴族の雅びで華やかなくらしを思いやっているのです。作者・正岡子規はといえば、貧しい病床にある身です。それが、藤の長さの対比となって詠われています。物語の昔に照らし合わせれば何ともわびしい自分であることよ、と苦笑いしながら作った歌と言えるのです。
2014年10月
鑑賞
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
※ 『竹の里歌』(明治37)所収。明治33年の作。
〔注〕二尺……現在の、約60センチメートル。
「薔薇」は夏の季語です。この歌の場合は季節は春、薔薇はこれから成長してゆこうとしています。初々しい生命の芽吹きを濡らして春雨が降っているという、静かな情景が詠まれています。詠み手の方も、この情景がもたらすままに、やさしく穏やかな気分で庭先を静かに眺めやっているのでしょう。
言葉のつながりとその位置
「くれなゐの」という句はどこにつながっているのでしょう。薔薇の「芽」が「くれなゐ」の色合いだというのでしょう。または、その芽がつけている「針」が「くれなゐ」だというのでしょう。文法的にはそんなところです。けれど、この句が初句に置かれたことは重要です。詠み手が情景を描こうとしたとき、まずは「くれなゐ」という色合いをとらえたのだと印象づけられます。そして、薔薇の「芽」もその「針」も「くれなゐ」だし、文法を無視して言えば、そこに降り注いでいる「春雨」までも「くれなゐ」の色合いをみせている、いわば歌の世界全体が「くれなゐ」であるかのような印象を、私は受けています。
また、「やはらかに」は、「針が柔らかで」と上を受けるのと「やわらかに春雨が」と下を修飾するのと、両方にとることができます。薔薇の針も生まれたては本当にやわらかです。そこに細やかな春雨が降り注いでいるわけです。「やはらかに」のこの位置が、この情景の柔らかさを際立たせています。
こうしてみると、どの言葉をどの順序でどこに据えるかということが歌にとって重要なことだなあと感じさせられます。
ちなみに、歌の中で、「の」が連続して用いられていることは、この歌のなめらかなリズムを作り出しています。内容と関わらせて言えば、春雨がやむことなくいつまでも降り続いているイメージを支えています。
自然観照と現代人
現代の私たちの多くは、薔薇を観賞する機会をほとんど持たないでしょう。中には、薔薇がいつ咲くのかも知らない人もいるかもしれません。子規は、藤の花や牡丹や薔薇などを歌に詠んでいます。子規の生活の中にそうした花々が自然と入り込んでいたのでしょう。しかし、現代人の多くは毎日忙しく働き、自然を観照するといったところとは遠い生活を送っています。当然、歌に詠む対象も違ってきます。自然の情景を詠む場合も、人事とかかわらせたところで詠まれてゆくのではないでしょうか。
この歌も現代の者からすれば遠いところにあると言わなければなりません。
2012年